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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
1.傲慢の紅き鎧
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第二章 5

 少女――土岐野雨は、降りしきる雨の中構内を走り回っていた。かれこれ一時間近く『彼』を探しているが、一向に見つからない。もしかしたら、もうこの学院の中にはいないのかもしれない。

 どうしよう、と土岐野は喘鳴を洩らしながら、前髪から流れ落ちる雨粒を拭った。それとも、もう「あれ」を実行しに行っているのだろうか。

 土岐野の脳裏には、先程『彼』が口にした一言が蘇っている。

 ――雨ちゃんが怖いって言うなら、俺がやっつけてあげるよ。

 確かに、あの聖職者たちは怖い。なにせ人の腕を一本吹き飛ばすほどの能力があるのだ。そんな彼らに自分がしでかしてきた行為を知られてしまえば、間違いなく捕まってしまう。

 プロフェットとはそういう人物だと、土岐野は『彼』から聞かされていた。殺人すら厭わない僧兵。七年前の『聖戦』のとき、聖都ではプロフェットたちによる大量虐殺が行われたというではないか。授業では当然そんなことは教えない。ただ、「大聖教」が一番正しいのだと懇懇と聞かされているようなものだ。歴史は時に隠蔽されることがある。だから土岐野が思うに、『彼』の言い分は信憑性が高い。

 だからといって自分が「やっつけて」なんて願っていいものだとは思わない。それは、プロフェットたちが行ってきたそれと似たようなものだ。

 だから土岐野は雨の中『彼』を探し回っていたのである。白い息が唇から洩れた。随分身体が濡れてしまった。寒さでかじかむ手を温めながら、土岐野は辺りを見回している。

 高等部の敷地は、この場所で最後だ。ここにいなければ、あとは中等部を探すしかない。

「いない……」

 しかし、休講だからか校舎の周りには人っ子ひとり見当たらない。『彼』独特のぞっとする雰囲気もなく、土岐野がひとりでぽつんと立っているだけだった。

 本当に、倒しに行ってしまったのだろうか?

 泣きそうになりながら、土岐野は懸命に周辺を探し回った。校舎の影、中庭。屋上も見てみたが、地上からはよく分からない。街路樹も仰いでみたけれど、せいぜい鳥が雨宿りしているくらいで、それらしい人物はどこにもいなかった。

 雨による寒さで、体力がすっかり奪われてしまった。土岐野はついその場にしゃがみこみ、咽びそうになるのを懸命に堪えた。

 濡れた髪が頬に張りついている。制服のスカートもびちゃびちゃで、やや細めの脚にぺったりとへばりついていた。

 どうしよう。見つからない。殺されてしまうかもしれない。

 自分の我儘のせいで。

 その時、土岐野はふと気がついた。先程から、自分に雨水が当たっていないのだ。

 見上げると、土岐野の頭上には濃紺の傘が差し出されていた。己の背後に立つのは、背の高い一人の男。

「風邪、ひいちゃいますよ」

 そう言って男――ホセ・カークランドは微笑んだ。

 突然現れた白い聖職衣の彼があまりにも自然だったので、土岐野はついつい「誰だろう」と呑気なことを考えてしまった。こんな神父は学院にはいなかったはずだし、そもそも在籍する外国人の教諭と言ったらせいぜい英語科くらいだ。

「ええと、土岐野、雨さんでしょうか」

 彼は流暢な日本語で尋ねてきた。土岐野は曖昧に頷きながら、そっと立ち上がった。知らない人だが、どこかで見たことのある顔だ。どこで会ったかな、と考えながら、土岐野は彼独特のアイボリーの瞳を見つめた。

 随分変わった色である。

 そこでようやく、土岐野は今朝出くわした神父のことを思い出した。

 ――そうだ、この男はあの時の!

 気づいてしまったらもう遅い。土岐野はさっと血の気が引く感覚を覚えた。

 だが、ホセはと言うと悠長なもので、いつもの穏やかな調子のまま話している。

「寮までお送りしますよ。なにせこの雨ですし」

「けっ、結構です!」

 たまらずに土岐野はホセを突き飛ばした。刹那、妙な熱が土岐野の両腕にまとわりつく。まずい、と思った刹那。

 激しい音を立てて、彼女の両手から炎が噴き出した。爆ぜるようにして勢いを増す黄みがかった炎は、真っすぐにホセめがけて突き進んでゆく。灼熱の業火。その熱で、周りの景色が大きく揺らいで見えた。

「あっ……!」

 だが、ホセは至極冷静だった。あろうことか炎を避けずに、そのまま左手で受け止めてしまったのである。当然彼の左腕は火の粉を纏う黄色の炎に包まれ、聖職衣に燃え移った。

「あ、あ――」

 少女の黒曜の瞳には炎の揺らめきがにじみ、涙が頬をゆっくりと伝っていった。それ以上なにも言うことができなかった。無意識に、またあの炎を発動させてしまった。しかも今度は、人間に向けて。

 ふむ、ホセは呟き、懐から手のひらサイズの小瓶を取り出した。

「『聖火』はね、同じ属性の『聖水』で消えるんです」

 そして、淡々と小瓶の中身を左腕にかけた。すると、土岐野が放った炎はみるみるうちに鎮火していくではないか。黒い煙はふわりと頬を掠め、焦げ臭さを残して消えた。そしてそれらが全て消えたところで、ホセは焼けおちてしまった聖職衣の袖を破り、己の腕を確認した。炎の勢いは相当だったはずなのだが、腕には傷一つついていない。彼の逞しい腕に巻かれている奇妙な機械の塊だけは、若干表面が焦げていたが。

「ついでに言いますと、『聖水』は医療用具なので、傷にも効くんですよね」

 そんな間の抜けた話は、土岐野の耳にはこれっぽっちも入っていなかった。ただ、彼女は目の前で見せつけられた奇妙な光景にただただ動揺するばかりである。

 そんなことはない。ぽつりと呟いた一言は、まるでうわ言のようだ。思わずホセはきょとんとしたまま首を傾げてしまった。

「そんなこと、あるはずがないの……! 何であなたは平気なの? どうして?」

 そうだ。『彼』は初めて出会った日に、はっきりと言ったではないか。

 ――あの『炎』は、燃えたら最後、絶対に消えることがない。だから俺が手伝ってあげる。俺がいれば、ちゃんと消してあげられるからね。

 そうだ、『あの人』は確かにそう言った。しかし、目の前の神父はいとも簡単に消して見せたではないか!

「あの人は、確かに言ったのよ、確かに――」

 混乱する土岐野はまるで壊れた機械のように、ものすごい速さで言葉を並べ始める。話すことで頭の中を整理する時間を確保しようとしているのかもしれない。自分でも驚くくらいに早口だ。

 ホセはふむ、と怪訝そうな表情を浮かべた後、彼女の名を呼んだ。

「『あの人』とは、一体どなたのことでしょうか」

 彼の問いかけに、土岐野の唇はぴたりと止まった。

 しまった。

 あまりに混乱し過ぎて、なにか自分はとんでもないことを口走ってしまった気がする。そもそも『彼』については他言無用だと約束していたはずだ。完全に墓穴を掘ってしまったことを悔いて、彼女はただうつむくしかできないでいる。

 外の雨は小雨に変わり、しとしとと細かな水滴がコンクリートの大地に降り注ぐ。大きくできた水たまりは、まだ僅かに滴の波紋に揺れていた。

「……あなたに教えることなんか、なにもない」

 彼女の脳裏には、怒涛の勢いであの光景が流れていた。

 初めて彼女の前に『彼』が現れたときのこと。『彼』は泣いている土岐野に、優しく笑って手を差し伸べてくれた。そして、願いを叶えてくれると言った。今まで誰にも言えず、ひとりで悩み続けていた彼女にとって、それは一筋の光のようで。

 ――よく頑張ったね。

 『彼』の言葉が頭を過る。

 そうだ。私は『彼』に願ったのだ。そのために『彼』の望みを叶えた。

 体育館倉庫も、校舎も、美術室も。言われた通りにこの『炎』で燃やした。そうすると、必ず彼は優しい口調で褒めてくれるのだ。

 ――頑張ったね。お疲れ様。

「土岐野さん……?」

 ホセの声が、彼女を現実に引き戻した。

 彼女はギュッと拳を握った。

 そうだ。それがどんなにいけないことだと分かっていても、立ち止まってはいけないのだ。『彼』が思い悩む土岐野をいち早く助けてくれた。決して「大聖教」なんかではない。誰よりも味方になってくれたのは。

 あのひとだ。

 土岐野はスッと顔を上げた。そして力のこもった黒の眼差しを、彼女はまっすぐにホセへと向ける。

 だから。彼女は思い切り、声を張り上げた。

「もう放っておいて!」

「あっ……!」

 叫ぶのと同時に、土岐野は走り出す。泥水が跳ねて足元が汚れようと構わなかった。ただ、『彼』に会いたかった。攻撃するのはやめてもらいたいけれど、やはり自分には『彼』しかいないのだ。会って話せば、きっと『彼』は慰めてくれる。

 そう思うのに、何故だろう。喘ぐ息に混ざる細い声に、自分でも驚いた。

「どうして……」

 心が苦しいのだろう。

「どうして」

 こんなにも悲しいのだろう。

 土岐野は立ち止まった。あの神父が追ってくる気配はない。吐き出す白い息は、今も彼女の見える世界を白く白く濁していく。

 今度はジワリと目の前が霞んできた。

「どうして……!」


 どうして、涙があふれて止まらないのだろう。

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