第二章 4
「ただいま」
しばらくして三善が戻ってきた。
すっかり雨に打たれてしまい、全身びしょ濡れになっている。いつもふわふわとしている灰色の髪も、今は水分を吸って白い頬にぺたりと張りつく始末。走ってきたのか、彼は喘鳴混じりに「せっかく新しい聖職衣だったのに」と残念そうに肩を落としている。
それを見たケファは、「おかえり」と声をかけながらタオルを渡した。
――本当に、予想通りに濡れて帰って来やがった。
ただでさえ三善はあまり身体が強くないのに、どうして雨宿りという選択肢を選ばないのだろうか。おそらくそのあたりはこの自分に影響されたのだろうが。その点についてのみ、ケファは反省した。
「ちょっとは予想外なことをしてみろ」
と訳の分からないことを言われたので、三善は頭の上にいくつかクエスチョン・マークを浮かべながら首を傾げる。
何が? とでも言いたげな表情である。
「ヒメくん、あまり濡れてしまうと風邪をひいてしまいますよ。その辺りをもう少し賢く、ね」
苦笑するホセに補足され、ようやく合点がいった。そういえば、雨宿りという選択肢は頭になかったような気がする。
ごめんなさい、と三善が謝ったところで、さて、とホセは手にしていたカップをテーブルの上に置いた。
「ヒメくんも帰ってきたので、ちょっと出てきます」
「え、どこに行くの?」
尋ねる三善に、ホセは短く頷き、一言。
「ト、イ、レ、です」
さらりと二人の横を通りすぎ、ホセは入り口で革靴を履いた。濃紺の傘をさりげなく携え、部屋を出ていってしまった。
ぱたん、と静かに戸が閉まる。
あまりに華麗に出ていかれてしまったので、その姿を呆然とした様子で見つめながら、三善はぽつりと呟いた。
「トイレって、確か部屋に備え付けだよね」
「傘持って行ったけど、あのおっさんは一体どこまで行くつもりなんだ」
謎だらけだが、あのホセという男はそういう人物だ。そういうものなのだと二人は熟知しているので、それ以上とやかく追求しようとはしなかった。
「それで、どうだった? 何か聞けたか」
三善のために紅茶を淹れながら、ケファが尋ねた。彼は頭をがしがしと拭きながら、うん、と生返事をしている。
「大体は聞けたけど、ごめん。ひとりだけどうしても話を聞けなかった」
「ひとり?」
三善は肯定した。
ケファから紅茶の入った大きなマグカップを受け取ると、ふんわりとした湯気が視界を濁らせる。鼻をくすぐるいい香りは、不思議と三善の気持ちを穏やかにしてくれる。ケファが淹れてくれるお茶はいつでもそうだ。どんなにもやもやとした気持ちを抱えていても、これを出されるとほっとしてしまう。まるで魔法みたいだ、と思いながら一口飲むと、心地良い温かさが胃に流れ込んでゆく。
「あのね、土岐野雨さんっていう……」
「そうか、やっぱり」
「やっぱり?」
きょとんとしたまま三善がケファを見上げると、彼は先程まで操作していたパソコンを再び操作し、三善にディスプレイを見せてやった。
「事件に関わった人物をまとめてみた。この学院で起こった放火は今朝も含めて五回。うち、後半三回の現場すべてに居合わせているのが、土岐野雨。しかも、彼女だけ被害ゼロ」
なるほど、と三善は呟き、再び画面に目を落とした。電子画面には、おそらく学生証のものだと思われる顔写真が掲げられている。日本人らしい、大きく丸い黒目に肩までのストレート・ヘア。こちらに向けられた真摯な眼差しからは、放火に関わっているとはとても想像がつかない。
そんなに悪い人だとは思えないんだけどなぁ。三善はそう考えたが、すぐにそれを訂正する。以前似たようなことをケファに言ったとき、「人は顔じゃねえぞ」と言われたことがあったからだ。
そこでふと、先程の少女を思い出した。あの時は必死になって走っていたし、雨のせいでよく見えなかったけれど、あの庭園にいた少女は確かこんな感じではなかったか。ふむ、と突然考え出した三善に、ケファは怪訝そうな表情のままどうしたのか尋ねてきた。
「いや、さっき、こういう子を見たなぁって……」
「はっ? それ、本当か?」
「うん。多分この子だ」
実は、寮の部屋を尋ねても彼女だけ不在だったのである。こういう事態だからこそ、今日はなるべく外に出るなと学長からお達しがあったはずなのだが。寮母も出かける姿を見ていないというので、「おかしいわねぇ」と首を傾げていた。もしもあの庭園で見た少女が土岐野雨だとしたら、寮にいなかったのも頷ける。
そうか、とケファは短く頷き、パソコンのカーソルを動かした。
「今朝の放火の時なんだけど。校舎から走ってくる彼女をホセの野郎が見ているそうだ」
「それって……」
ケファは何も言わなかった。その代わり、別のファイルを呼び出し、画面上に展開させる。それは、ホセが持ち出していた例の動画資料だった。それを再生し、三善が指摘した箇所で一時停止させる。
「昨日、“傲慢”と対峙したって言ったろ。もしかしたらと思ってもう一度見直したんだけど、」
そこでケファは何かを入力した。画面に一瞬ノイズが走り、画像が徐々に塗り替えられてゆく。その度に、三善が指摘した影がはっきりとしたものになる。漆黒の闇の中微かに浮かび上がるのは、人間のものと思われる影だ。時間を追う毎に、その影の輪郭ははっきりと浮かび上がってゆく。
「ところで、ヒメ。“七つの大罪”のに共通する主な能力は?」
「え? “解析”“逆解析”“封印”“弾冠”の四つ、かな」
「うん、そうだ。その中のひとつ“封印”が、空間をねじ曲げ特定のものを別次元に飛ばす――うーんと、時間軸の話はしてないか。まぁ、今はそういうもんだって思ってくれ」
ここ、とケファが影を指す。そこに浮かび上がる影は、もう当初のぼんやりとしたものなんかではなかった。くっきりとした輪郭を以てその人物の存在を知らしめている。それは、二人にとって見覚えのある人物のものだ。
「ここに、“封印”が施されていた。ちょっと解析かけたらすぐに出てくるなんて、“傲慢”第一階層は大層余裕がなかったらしい」
――土岐野、雨。
それは制服姿の彼女が、苦しげな表情を浮かべながら炎を放つ瞬間だった。瞳には涙を浮かべ、声を上げ泣き叫びたいのを懸命に堪えているその姿は、こちらから見ていてもひどいものだった。唇を噛みしめながらかざした彼女の手から噴き出す、黄みがかった炎。涙が頬を伝うたび、その勢いは増してゆく。
三善は沈痛な面持ちで俯き、無意識に手にしていたメモ用紙を握りつぶしていた。ぐしゃり、と音を立てるまで、自分が拳を握っているとは気がつかなかったほどだ。
「……三善。それで、お前の聞き込みはどうだった?」
ケファが優しい声色で尋ねると、三善はのろのろと首を横に振った。
「もう……それで、いいじゃない……?」
この聞き込みの内容は、彼女が行ってきた過ちの数々だ。あの映像を見れば、それら全てが彼女にとって辛く哀しいものだったと嫌でも思い知らされる。何度も蒸し返されるよりは、ここで終わりにした方がいいのではないかと三善は思ったのだ。
だが、ケファはそれを否定した。
「お前は優しいなぁ」
三善が何故拒んだのかをすぐに察し、ぽん、と半乾きの頭に手を置いた。
大きな手に、三善ははっと紅玉の瞳を見開いた。
「もしかしたら、あの嬢ちゃん、誰かに気付いてほしかったのかもしれないな。やりたくないことを無理にやらされて、でも、そのことを誰にも相談できなくてさ。辛かったろうなぁ。三善、お前は今気付いただろ。だから今、誰よりも親身になってあの嬢ちゃんを助けてあげられる。でも、助けるには理由が分からなきゃいけない。あの子が今どうして欲しいのか、一緒に考えよう」
聞き込みの資料はそのために使うんだ、とケファは優しく笑った。決して彼女を責めるために使うのではないと、三善にはっきりと明言した。
それを聞き、三善は赤い瞳をじっと紫の瞳に重ね合わせ、…のろのろと頷いた。そして、もうすっかりぐしゃぐしゃになった紙きれを丁寧に広げ始める。
「ええと、」
たどたどしい口調で三善は要点をケファに伝えた。ケファはそれをひとつひとつ、確認しながら聞いている。そして三善が「以上です」と言い放ったのを聞くと、彼はいつもの口調で言うのだ。
「満点ごーかく。よく頑張ったな」
さて、とケファは立ち上がり、窓の外を確認した。
雨はいよいよ本降りとなり、大粒の滴がコンクリートの地面を叩きつけている。大きな水溜まりに弾かれる雨粒は波紋を描き、映し出す曇天に緩やかな波を作る。
「こりゃあ危険かもしれないな」
ぽつりとケファが呟く。
「え?」
「ヒメちゃんが教えてくれただろ。必ず水のある場所で発火する、雨水で発火した例もあるってさ。この雨の中、傘もささずに外に出歩いていたら……」
三善はさっと血の気が引く感覚を覚えた。そうだ、先程見た少女が本当にあの土岐野雨だったとしたら。
――今、発火する条件がものの見事に揃っているではないか。
三善はどうしよう、と泣きそうな顔でケファを仰ぐ。
「どうするもなにも、とりあえず見つけて保護するしかないだろ」
まだ外にいるかは分からないが、とケファは付け加えた。「ヒメ、外に出られそう?」
「うん、大丈夫」
「そ、か。じゃあ行くか」
先にケファが窓辺から離れ、外に出る準備を始めた。三善はそれを横目で見つめた後、再び窓の外に目線を移した。そして、ふっと息をつく。
実のところ、三善は雨が苦手だった。否、雨というよりは、この曇天そのものが嫌なのだろうか。暗い色をした雲が重く広がる様は、『あの時』の湿った天井を彷彿させるのだ。
自分が二年前、ケファ・ストルメントという教師に出会うまで過ごした、あの暗く冷たい空間を。
正確に言えば、三善は当時のことをはっきりと覚えてはいない。彼が覚えているのは、暗い場所に感覚が麻痺するくらい長いこと閉じ込められていたことくらいだ。だからこそ、ターニングポイントとなったあの日を思い出すと胸が締め付けられる思いがする。
三善は右手の中指で首から下げている銀十字をなぞった。
細かい彫刻が指先に感触として伝わってくる。この十字架は、洗礼を受けた際にケファから譲り受けたものである。本来は新しいものを取り寄せるべきところなのだが、三善はわがままを言ってこれを譲り受けたのである。
指先に伝わる彫刻のくぼみ、それから、それとは別の深い傷。これは自分の師が背負ってきた断罪と信仰の証なのである。この傷に彼の生きざまが見えるようで、だから三善はこれがいいな、と考えたのだ。この傷を、彼と一緒に背負うと決めたのだ。
もしもこの場所に『釈義』が原因で苦しむ人がいるのだとしたら、自分がその苦しみを半分背負ってやりたい。それしかできないのがひどくもどかしいと感じるけれども。しかし、自分ができることは全部やりたかった。
「三善、行くぞ」
背後からケファに声をかけられた。その声に反応し、三善は振り返る。
「うん」
だから、今は彼女のために動こう。そう思ったのである。