第二章 3
少女は学園の外れにある庭園へと足を運んでいた。
先程まで天気が良かったのだが、今はどんよりとした厚い雲が青空を覆い隠してしまった。湿っぽい空気が流れ込んでくるので、もしかしたら、雨が降り出すところなのかもしれない。
濡れてしまう前に、寮に帰らなくては。
そう考えながら、彼女は石畳の道を歩く。
今朝、講義棟の近くにいたあの神父は誰だろう。黒い外套を身に纏っていたせいでその正体はよく分からなかったが、例のツートーン・カラーの聖職者でないことは確かだ。昨日やってきた二人の聖職者の応援だろうか?
もしもそうだとしたら、とても厄介なことになった。
思わずため息をつくと、
「あーめちゃん」
突然頭上から声が聞こえてきた。見上げると、庭園に植えられている桜の木――今は青々とした葉に覆われている――の影に、微かに人影が見える。その人影に、少女ははっと身を固くする。
「御苦労さま。君も、ようやく慣れてきたんじゃない?」
男性の声だ。流れるように美しいテノール・ヴォイスは、こんなに不自然な内容でなければ、いくらでも聞いていたいと思う程だ。歌わせればもっと映えるだろうに、少なくとも少女の前で『彼』はそのような仕草を見せたことはただの一度もなかった。
そもそも、基本的に『彼』は少女の前に姿を現さない。初めて会った時に一度だけ姿を見せたが、それ以降はこんな感じで、声のみを伝えてくる。そんな人を信用しろと言われる方に無理があるけれど、少女はそれでも彼に付いて行くことを選んだ。その他に選択肢がなかったからだ。
「私……、」
少女は何とか声を絞り出した。「どうしよう」
「何を?」
「だって、昨日からあなたの言う聖職者が何人もやってきているもの。今日だって、そういう格好の人がやってきているし……」
怖い、と少女は切に訴えた。だが、木陰に隠れたまま一向に姿を現さない『彼』は、「大丈夫」と、優しい声をかける。
「しかし、厄介な奴が来たのは確かかなぁ。昨日、腕を一本持っていかれてさ。俺も困っているところだ」
「腕……?」
「そう、腕。スパッと一本」
それってかなりマズイんじゃなかろうか。
聖職者が人を傷つけていいはずなんかない。もし『彼』の言うことが本当だとしたら、あの聖職者たちは――
贋者?
少女の頭にそんな言葉がよぎった。そうか、贋者ならば血なまぐさいことも平気でやってのけるだろうし、うまくいけば今までの“事件”も全てなすりつけることができるかもしれない。そうすれば、自分が疑われることはなくなる。もう、こんなに怖い思いをしなくてもいいのだ。
だが。少女の思考はそこでぴたりと静止した。
黙り込んだまま固まっている少女に、『彼』はやんわりと声をかける。
「雨ちゃんが怖いって言うなら、俺がやっつけてあげるよ」
少女は顔を上げた。
「そんなこと、できるの?」
「ああ、できるとも。大事な雨ちゃんを泣かせる奴は許せないねぇ」
それに、と『彼』は付け加えた。「片腕の代償は、しっかり払ってもらわなくちゃ」
その声色はぞっとするほど冷たい。少女ですら薄気味悪さを覚えるほどに、『彼』が本来持ち合わせている残忍さをより一層際立たせる。
そんなことを願ってはいけないと頭では理解していた。胸の中に溜まってゆく黒い靄の正体はそれだ。自分勝手に、そんなことまで決めてしまってはいけないのだと。『彼』がやると言ったらやるに決まっている。一番はじめの放火の時も、二回目の時も。怖気づくのではないかとたかを括っていたら、彼は本当にそれをやってしまった。そしてこうも言う。
三回目以降は、君の番。
「……っ」
やっぱり、やめてもらおう!
少女が顔を上げると、そこには既に『彼』の姿はなかった。先程まで痛いほどに感じていた気配は霧散し、ただ湿っぽい風が庭園を吹き抜けていくばかりだった。
ぽつり、と雨粒が一滴、少女の頬を濡らした。
***
ようやくひとしきりの聞き込みを終え、三善は長く息を吐き出しながら寮を後にした。疲れた、と肩をがっくりと下げながら、詳細を記録したメモに目を通す。
それにしても、生徒たちはよく話してくれたものだ。結構な情報量に三善は呆気に取られつつ、先程までの状況を回想する。
被害に遭ったという生徒たちは突然やってきた三善を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。無理もない。昨日の件にしても、今朝の件にしても、不慮の事態とはいえ対処が遅れたことには変わりない。それに対し不満が募るのも至極当然のことだ。プロフェットである以上こういう局面には慣れている三善だが、やはり何度経験しても辛いものは辛い。どう対応しても、結局のところは言い訳でしかないのが分かっているからだ。
それでも、引き下がる訳にはいかない。ここで手を打たなければ、また『次』があるかもしれないのだ。
そんな思いを胸に三善が必死で頼み込むと、彼の真剣さが伝わったのか、生徒たちは唸りつつもようやく口を開いてくれた。
「……あの日の話をするのは、本当は嫌なんだ。もう思い出したくもないのに、俺たちは警察には何度となく説明しなくちゃいけない。その度に思い出さなきゃいけない……この苦痛が、分かりますか。神父さん」
とある男子学生はそう言った。左腕全体を覆うように、真っ白な包帯が巻きつけられている。その痛々しい腕を見ただけで、三善の心は酷く軋んだ。しかし、目を背けてはいけない。ぐ、と拳を握り、三善は口を開く。
「心中……お察し申し上げます。あなたにとって嫌な記憶を再び思い出させてしまうのは、非常に心苦しい。しかし、あなたのような被害者を再び出さないためにも、是非お話を聞かせてほしいのです。もちろん、主と聖霊に誓って、あなたの秘密は守ります」
必死に懇願する様子に、男子生徒は短く息をついた。仕方ないなと呟きながら。
「分かった。話すから――、約束してくれますか、神父さん」
三善がぱっと顔を上げた。その嬉しそうな表情といったらない。この男子生徒は三善のそんなストレートな感情表現を面白く感じたらしい。唇には微笑みが浮かんでいる。
「あなたは高名なプロフェットだとお聞きしました。昨日もその力で“七つの大罪”と戦ったとか。あっ、友達から聞いたんだけど……。次に何かあった時も、俺たちを守ってくれますか」
三善は微笑んで、約束します、とはっきりと言った。
彼が体験した事件を要約すると、こうだ。
彼は校舎から学生寮に戻ろうとしていた。しかし、その日は午後から強い雨が降り始め、授業が終わる頃にはまるでバケツをひっくり返したかのような大雨となっていた。その勢いは収まらない――むしろ、どんどん強くなっている。
校舎から寮までのおよそ百メートルには屋根の付いた渡り廊下はないし、彼は傘も持っていなかった。走れば大して濡れずに済むだろうと考え、彼はどしゃぶりの中外に繰り出したのだそうだ。そのとき外にいた生徒は、彼の周囲だけでもおよそ十五人弱。通常に比べてはるかに少ないが、これはほとんどの生徒が雨の勢いに気圧され、教室待機を決め込んでいたからだと考えられる。
彼が外に出て走り始めると、左腕が熱い。異変に気が付きふと腕を見ると、なんと制服の袖に火が付いていたのだ。このどしゃ降りの中だというのに、火は弱るどころか徐々に勢いを増してゆく。慌てた彼は上着を脱ぎ捨てたので、火傷はそこまでひどくならなかった。しかし上着は全焼し、見るも無残な状態となってしまった。ちなみに周りにいた十五人にも同様に火が付き、これらの火も雨だというのに全く消える様子はなかったのだという。
「あの炎はなんですか。昨日の化け物となにか関係があるのですか」
そう尋ねる彼に、三善は曖昧な微笑みを返すことしかできなかった。
――こんな内容の話を、どの生徒も口を揃えて言うのである。シチュエーションこそ異なるが、水気の多いところで突然発火する点、水(水道水や、ミネラルウォーターなどが挙げられていた)や消火器では消えない点、それから時間帯が主に早朝・放課後から深夜に集中している点は共通項目として取り扱っても差支えないだろう。
ふと、先程のケファの言葉を思い出した。
「“聖火”を唯一消せるのは、“聖水”という同じ属性を持つ水だけ……」
何かが引っかかる。
三善はうんうん悩みながら、ケファ達が本拠地としている大鷲寮の一室に戻り始めた。
朝はあんなに晴れていたのに、今はどんよりと湿った雲が立ち込めている。これはひと雨降るな、と三善が思っていると、すぐに彼の頬に雨水が落ちてきた。
「うわ、」
せっかくのメモが濡れて台無しになってしまう!
聖職衣の腹部にメモ帳をしまいこみ、三善は大鷲寮めがけて一気に走り出した。雨は徐々に勢いを増し、灰色の癖毛を湿らせてゆく。このままでは、せっかくの新品の聖職衣が台無しになってしまう。
走りながらも考えて、三善は通常用いらなければならない外周コースではなく、庭園を突き抜けていくことにした。本来この庭園はそういう目的で通ることは禁止されているようだが、仕方ない。事実上この庭園を通れば数分程度のショートカットが可能だし、一応自分は部外者だ。そういう少々頂けない理由を用意して、三善は方向転換した。
「……あれ?」
庭園を走りぬけてゆく刹那、とある木陰に、彼は人影を見た。
赤い瞳が捉えたのは、この学校の制服を身に纏った女子生徒だ。肩までの黒髪に、三善ほどではないが白い頬。彼女は大木に身を委ね、ぼうっと遠くを見つめている。三善の姿には気が付いていないようだ。
雨宿り、かなぁ。
三善はそんなことを考えながら、庭園を走り抜けた。目の前はもう、大鷲寮の正面玄関である。
***
雨の音を耳にしながら、ケファは黙々とキーボードを叩く。三善はまだ帰ってこない。もしかしたら、この雨だからどこかで雨宿りしているのかもしれない。風邪を引かれても困るので、できればそうしてもらいたいところだ。なんとなく濡れて帰ってくるような気はしていたが。
そんな彼の背後でまったりとくつろいでいるのは、すっかり休憩モードに突入したホセである。
「ところで、今日は礼拝を行わないのですか? ケファ」
ただ休憩するのも暇なので、自分ができることを考えたようだ。そんな問いをケファの背中に投げかけると、意外にも丁寧な返事が聞こえてきた。もっとこう、「こっちは暇じゃねぇんだよ」などと汚い言葉が返ってくることを想像していたので、思わず拍子抜けしてしまうホセである。
「今日は中止なんだと。思いの外生徒が混乱していて、疑心暗鬼に陥っているらしい。まぁ、昨日の今日でこんなことがあれば賢明だろうな。明日からはいつも通りやる予定ではいるけれど、このまま進展がなければ見合わせだろうな」
「なるほど」
ケファは一度手を止め、椅子の背もたれを利用して背筋を大きく伸ばした。ぼきりと気味の悪い音がした。それが首の骨が鳴る音だと分かると、ホセはにこにこと笑い――否、正確には嘲笑だろう――、言ってやった。
「歳ですね。自称二十五歳のケファさん」
「残念ながらあんたより十歳は若いぞ、ブラザー・ホセ」
「おじさんの世界へようこそ。お待ちしておりました」
「人の話は聞けよ、おっさん」
これだからアンタは……と嘆息を洩らすケファに、ホセも実にわざとらしい溜息を返す。その長ったらしさといったらない。
「全くあなたときたら、ああ言えばこう言う。一応付き合いだけは長いんですから、仲良くしておきましょうよ」
「絶対嫌だ。俺はお前が嫌いなの! 何度言えば分かるんだ、この化け狸!」
「狸とはまたまた。それじゃああなたは狐ですねぇ。その化けの皮、いつ剥がしてやりましょうか」
「てめッ……」
明らかに不機嫌オーラを垂れ流すケファをよそに、ホセは涼しい顔をしている。口喧嘩だけなら、ホセは彼に負けたことがないのだ。伊達に長いこと生きていませんよ、と呟き、それから部屋の隅のコーヒー・サーバに手をかけた。中のコーヒーは温み、湯気も微かに見える程度となっている。
ホセは二つのカップにそれを注ぎ、そのうちひとつをケファの横に置いた。
「あなたは確か、ブラック派でしたね」
「うん、まあ……よく覚えているな」
教えたことがあっただろうか。不思議そうに首を傾げたケファに、何を言っているんだと言わんばかりのホセが肩を竦めた。これも、少々演技がかっている。
「研究室時代、よく私に淹れさせていたでしょう。私の方が先輩なのに。全く、あなたときたら態度だけでかくて」
「……訂正させろ。俺はお前の論文の代筆をさせられていただけなんだが」
「そうでしたか? ……おや」
ホセはふと、ケファが開いていた顔写真ファイルの中から一枚、見覚えのある顔を発見した。
今朝、坂を登った先ですれ違った制服姿の少女である。名前を土岐野雨というらしい。そうか、そんな名前なのかとホセは納得したように頷いた。それにしても、名前で「雨」は珍しい。来日してから相当経つが、この名前は初めて見た。
「この子、さっき見ましたよ。かわいい子ですよね、日本人らしくて」
にこやかにコメントすると、唐突にケファの手が止まった。目線はディスプレイに向けられたままだが、明らかにホセの言葉に集中している。おや、とホセは思う。自分はなにか変なことを言っただろうか。ただ、(自分でもおっさんだと思いながら)可愛いと。そう言っただけなのだが、どこに責められる要因が?
微妙な沈黙を破るかのように、ケファが口を開く。
「……今、なんと?」
「かわいい子ですよね」
「その前だ」
「この子、さっき見ましたよ」
ケファはそれを耳にするなりものすごい形相でホセを睨みつけた。まるで般若の面のような、恐ろしい表情である。そして怒気を孕んだ強い言葉を力任せに投げつけた。
「何故それを早く言わない!」
いいか、とディスプレイを指先で叩く。「今朝、ボヤ騒ぎがあっただろ」
それは知っている。首を縦に動かしたホセに、ケファは言い放った。
「今日は高等部の全学年が休講になっているんだ。そもそも校舎に入ることすら禁じられている。それなのに、どうして彼女がボヤのあった時間にそんな場所にいるんだ?」
「……ああ、なるほど」
ようやく納得したホセは、のんびりと彼に返答した。「つまり、彼女が一番怪しいってことですね」