「君を愛することはない」と言われたので「承知しました、私もです」とお返ししたら、旦那様が毎晩扉の前で落ち込んでいます
「最初に言っておく。君を愛することはない」
結婚式の夜。寝室の扉の前で、旦那様——辺境伯アルベルト様は、低い声でそう告げた。
夜の色の髪に、鋭い青の瞳。北の国境を守る「氷の辺境伯」にふさわしい、冷たい声だった。
私は少しだけ考えて、それから、にっこり笑った。
「承知しました。私もです」
「……え?」
「ご安心ください。私も旦那様を愛するつもりはございません。お互い、干渉しない結婚にいたしましょう」
旦那様は、なぜか石像のように固まった。
「では、おやすみなさいませ」
私はぱたんと扉を閉めた。
それから寝台に飛び込んで、枕に顔をうずめ、足をばたばたさせた。
——最高だ。これで、好きなだけ研究ができる!
◇
私、クラリスは、子爵家の次女である。
趣味は薬草の研究。いや、趣味というには少々熱が入りすぎていて、実家の温室を勝手に三倍に広げ、父に泣かれたこともある。
辺境伯家との縁談が来たとき、正直、気が重かった。
夫に尽くし、社交に励み、刺繍をたしなむ——そんな「良き妻」になれる自信はなかった。
けれど、北の辺境には、王都では手に入らない珍しい薬草が山ほど生えているという。
今日の結婚式のあいだも、旦那様はほとんど口をきかなかった。
誓いの言葉は、一言一句、教本どおり。指輪をはめる手はなぜかぎくしゃくしていて、一度、私の指ではなく、自分の指にはめかけた。祝宴では、客の挨拶に「ああ」と「そうか」しか返さず、辺境伯家の親族の方々は、そろって私に同情の目を向けてきた。
「気難しい子ですけれど、根は悪くないのよ」と、叔母様にあたる方が、そっと耳打ちしてくださったほどだ。
それでも、式が終わる頃には、私はすっかり覚悟を決めていた。——この方とは、きっと、礼儀正しい他人同士になるのだろう、と。
だから、「愛することはない」と言われたとき、私は心から安心したのだ。
愛されないなら、期待もされない。期待されないなら、好きなことができる。
翌朝から、私は城の裏庭を借りて、薬草畑を作り始めた。
使用人の皆さんは親切で、特に執事のハンスさんは、鉢植えを運ぶのを手伝ってくれた。
「奥様。……その、旦那様のことなのですが」
「はい?」
「昨夜、奥様のお部屋の前を、一時間ほど行ったり来たりしておられました」
「まあ。夜の見回りですか? 辺境伯様は勤勉でいらっしゃいますね」
ハンスさんは、なんとも言えない顔をした。
朝食の席でも、旦那様は妙だった。
長い食卓の端と端。旦那様は黙々とパンをちぎりながら、ときどき、ちらりとこちらを見る。
目が合うと、ものすごい勢いで逸らされる。
「……畑を、作っているそうだな」
「はい。裏庭を少しお借りしております。ご迷惑でしたら」
「迷惑じゃない」
食い気味だった。
「……何を、植えている」
「今は、熊笹と、山薄荷と、それから北でしか育たない苦蓬を試しています。苦蓬は胃の薬になるのですが、王都では気候が合わなくて、育てるのが本当に難しいんです。葉の裏に白い毛が生えていて、それが寒さから身を守っているのではないかと私は考えていて——」
はっと口をつぐんだ。
また、やってしまった。薬草の話になると止まらなくなるのは、私の悪い癖だ。実家では、父にも姉にも、何度もうんざりした顔をされた。
「申し訳ございません。つまらないお話を」
「続けてくれ」
「え?」
「白い毛が、どうしたんだ」
旦那様は、パンをちぎる手を止めて、まっすぐこちらを見ていた。
その顔は相変わらず怖かったけれど、うんざりしているようには、まるで見えなかった。
私は結局、朝食が冷めきるまで、苦蓬の話をしてしまった。
旦那様は最後まで、一度も口を挟まなかった。
◇
それから毎晩、同じことが起こった。
夜になると、扉の向こうから、ゆっくりとした足音が聞こえる。
行って、戻って、また行って。
ときどき扉の前で立ち止まり、「……クラリス」と小さく呼ぶ声がする。けれど、私が「はい?」と返すと、「……なんでもない」と足音が遠ざかる。
四日目の夜は、足音のあと、扉の下から一枚の紙が差し込まれた。
『北の夜は冷える。
毛布を一枚、廊下に置いておく。
それと、苦蓬の種を、北の砦の薬師から分けてもらった。畑に使ってくれ。
アルベルト』
角ばった、ひどく几帳面な字だった。
扉を開けると、廊下には、ふかふかの毛布と、小さな麻袋が置かれていた。袋の中には、苦蓬の種がぎっしり詰まっていた。
私は毛布を抱えて寝台に戻り、しばらく天井を見上げていた。
——干渉しない結婚、のはずなのに。
その夜、足音が遠ざかっていくのを、私は初めて、少しだけ寂しいと思った。
次の夜は、足音が聞こえてくるまで、なぜか眠れなかった。
五日目の朝、ハンスさんがとうとう打ち明けてくれた。
「奥様。実は旦那様は、あのお言葉を、心から言ったわけではないのです」
「え?」
「騎士団の部下たちに、『政略結婚なんだから、最初にはっきり言っておかないと、女ってのは付け上がる』と吹き込まれまして……旦那様は、女性とのお付き合いの経験がまるでないものですから、真に受けてしまわれたのです」
私は、手に持っていた鉢植えを落としそうになった。
「で、では、なぜ毎晩私の部屋の前に?」
「……謝りたいのに、言い出せないのでしょう」
ハンスさんは、深々とため息をついた。
「お見合いの席で、奥様が庭の雑草を見て『これは解熱に効くんですよ』と目を輝かせておられたのを、旦那様はたいそう気に入っておられました。帰りの馬車でも、ずっとその話をしておられて」
「雑草の話を、ですか」
「雑草の話を、です」
その日の午後、裏庭に、大きな体の騎士たちが三人、神妙な顔でやってきた。
「お、奥様! このたびは、誠に申し訳ございませんでしたっ!」
三人そろって、地面に額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げる。
聞けば、彼らこそが、旦那様に「最初にはっきり言っておけ」と吹き込んだ部下たちだった。
「まさか団長が、あれを一字一句そのまま言うとは思わなくて……」
「団長、あれから毎日、訓練場で素振りを千回やってるんです。何かを振り払うみたいに。付き合わされるこっちが死にそうです」
「どうか、どうか団長を許してやってください!」
私は、困って頬に手を当てた。
許すも何も、私は怒ってすらいないのだけれど。
「あの、皆さん。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「はいっ!」
「先ほどから、咳をしていらっしゃる方がいますよね。北の冬風邪は、こじらせると長引きます。よろしければ薬を煎じますので、あとで取りにいらしてください」
騎士たちは、ぽかんと顔を見合わせた。
それから、一番若い騎士が、ぐすっと鼻をすすった。
「……団長が惚れるわけだ」
聞こえないふりをするのに、ずいぶん苦労した。
◇
その夜も、足音はやってきた。
私は扉の前に立ち、足音が止まったところで、そっと扉を開けた。
「ひっ」
氷の辺境伯様が、情けない声を上げて一歩下がった。
その手には、雪にまみれた小さな花束が握られていた。
「……それ、雪割草ですか? 北の岩山にしか咲かない」
「ああ。……君が、見たがっていると、ハンスに聞いて」
私は花を受け取った。凍えるほど冷たい。
よく見ると、旦那様の手にも、頬にも、岩で擦ったような傷がある。
「まさか、ご自分で採りに行かれたのですか? この季節の岩山に?」
「部下に頼むわけにはいかないだろう。これは、俺が……」
旦那様は言葉に詰まり、ぎゅっと目をつぶった。
それから、戦場で号令をかけるような大声で言った。
「撤回させてくれ!」
「え」
「初夜に言った言葉を、撤回させてほしい。あれは、俺の本心じゃない。俺は、見合いの日から、ずっと君のことが——」
そこで、声がしぼんだ。
「……だから、君も『私もです』と言ったのを、できれば、その、少しだけでいいから、考え直してもらえないだろうか」
私は、手の中の雪割草を見つめた。
冷たい花びらの奥に、小さな黄色い芯がある。厳しい冬の岩山で、ちゃんと春を待っている花だ。
この人は、これを採るために、凍える岩山を登ったのだ。
雑草の話に目を輝かせる、変わり者の妻のために。
毎晩、扉の前を行ったり来たりしながら、言えなかった言葉を、ずっと胸に抱えたまま。
「旦那様」
「……はい」
「お手の傷、見せてください。擦り傷に効く軟膏を、ちょうど作ったところなんです」
旦那様は、きょとんとした顔で手を差し出した。
私はその手を取り、部屋の中へ引き入れた。
「それと——」
薬棚から軟膏の壺を取りながら、私は背中越しに言った。
「私も、撤回します」
振り返らなくてもわかった。
背後で、氷の辺境伯様が、ずいぶん長いこと息を止めていた。
軟膏を塗るあいだ、旦那様は、借りてきた猫のようにおとなしかった。
大きな手だった。剣だこだらけの、北の国境を十年守ってきた手。その指先が、私の手の中で、かすかに震えていた。
「……痛みますか」
「いや。……こういうのに、慣れていないだけだ」
「軟膏にですか?」
「誰かに、手を取られることに」
私は、塗り終えた手に、そっと包帯を巻いた。
それから少し迷って、その手の甲を、指先でとん、と叩いた。
「では、これから慣れてください。薬草研究者の夫は、しょっちゅう実験台になるものですから」
旦那様は目を見開いて、それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
氷の辺境伯様が笑うのを、私はそのとき、初めて見た。
◇
翌朝、ハンスさんは、裏庭の薬草畑の隣に、もうひとつ畝を作ってくれた。
「旦那様のご命令です。雪割草を植える場所を、と」
それから、ハンスさんは少しだけ笑って付け加えた。
「それと、薬草畑のお手伝いに、騎士団から三名、志願者が出ております。咳はもう、すっかり治ったそうですよ」
ちなみに、騎士団の訓練場では、その日から千回の素振りがなくなったらしい。
代わりに団長は、休憩のたびに「妻が作った」と言って、苦くてよく効く咳止めの飴を部下たちに配るようになった。
飴を配るときの団長の顔が、少しも怖くないことに、部下たちはすぐに気づいたそうだ。
春になったら、きっと咲くだろう。
今度は、二人で見られたらいい。




