9
――次の日。
教室に入った瞬間、少しだけ空気が違う気がした。
理由は分からない。
ただ、なんとなく。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせながら、いつも通り神代の席へ向かう。
「おはよう」
声をかける。
神代は顔を上げて――やっぱり少しだけ眉をひそめた。
「……誰?」
いつもの反応。
いつもの始まり。
「朝霧澪。同じクラス」
「へえ……悪い、覚えてなくて」
「うん」
短いやり取りで終わる。
――ここまでは、何も変わらない。
(やっぱり)
昨日のことを思い出して、胸の奥が少しだけ沈む。
期待しないって決めたのに。
それでも、どこかで願ってしまっていた。
「……」
そのまま、自分の席へ戻ろうとしたとき。
「なあ」
不意に、呼び止められた。
一瞬、足が止まる。
(……え?)
振り返る。
神代が、こちらを見ていた。
「ん?」
「……いや」
何か言いかけて、やめる。
少しだけ首をかしげて、考えるような顔。
「……やっぱなんでもない」
そう言って、視線を外す。
(今の……)
胸の奥が、小さくざわつく。
今まで、こんなことはなかった。
話しかけるのは、いつも私の方だったのに。
(気のせい……?)
そう思って、今度こそ席に戻る。
――数分後。
授業が始まる直前。
ざわついていた教室の中で、神代が立ち上がった。
「……あれ」
小さく呟いて、周りを見回す。
何かを探すみたいに。
(……?)
視線が、教室の中をゆっくりと巡る。
前の席、後ろの席、窓の外――
そして。
ぴたりと、私のところで止まった。
「あ」
ほんのわずかに、目が見開かれる。
見つけた、みたいに。
(……なんで)
心臓が、強く跳ねる。
神代は迷うことなく、そのままこっちに歩いてくる。
そして――
私の隣の席に、当たり前みたいに座った。
「え」
思わず声が漏れる。
ここは、いつも空いている席。
でも、彼が座ったことなんて一度もない。
なのに。
「なんかさ」
神代は前を向いたまま、ぽつりと呟く。
「ここ、落ち着く気がする」
――。
言葉が出ない。
理由なんて、ないはずなのに。
覚えているはずもないのに。
それでも。
「……なんでだろうな」
自分でも分からないみたいに、少しだけ笑う。
(……違う)
胸の奥が、強く熱くなる。
これは、気のせいなんかじゃない。
偶然でも、勘違いでもない。
(残ってる)
形はなくても。
言葉にもならなくても。
確かに――
何かが、残っている。
私は何も言えないまま、隣に座る彼を見つめる。
神代はもう普通に前を向いて、授業の準備をしている。
まるで最初からそこにいるのが当然みたいに。
でも。
(この人は)
胸の奥で、確信が生まれる。
今まで何度も繰り返してきた中で、初めての感覚。
(この人だけは、違う)
忘れられるはずなのに。
全部消えるはずなのに。
それでも――
「……」
小さく息を吸う。
怖いはずなのに。
それ以上に、嬉しくて。
(もしかして)
そんな言葉が、もう止められない。
(この人なら)
初めて、はっきりと思う。
(覚えてくれるかもしれない)
――たとえ明日、また“はじめまして”になったとしても。




