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どれくらい、そうしていたのか分からない。
時間の感覚が、もう曖昧だった。
膝を抱えたまま、ただ小さく息をしているだけ。
何も考えないようにしても、勝手に浮かんでくる。
消えたはずの記憶たちが、遅れて胸を締めつける。
(……もう、いい)
さっき、そう思ったはずなのに。
何度も繰り返したはずなのに。
頭の奥で、別の声が小さく響く。
――ほんとに?
「……」
顔を上げる。
視界はまだぼやけている。
でも、その奥で。
何かが、引っかかっていた。
(……あいつ)
神代の顔が浮かぶ。
さっきの、“知らない人を見る目”。
あれで、終わったはずなのに。
なのに。
それとは別に――
もう一つ、思い出してしまう。
何度も、繰り返し聞いた言葉。
『なんでか分かんないけどさ』
『お前、放っておけないんだよな』
胸の奥が、わずかに揺れる。
あれは、嘘じゃなかった。
作った感情でも。
偶然でもない。
何も覚えていないはずなのに。
それでも、あいつは何度も同じことを言った。
(……違和感)
今日も、一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ。
何かを感じていた。
扉の向こうを、見ていた。
あれは――
完全に“ゼロ”じゃなかった。
「……まだ」
声が、かすかに漏れる。
自分でも驚くくらい、小さな音。
「……ゼロじゃない」
ゆっくりと、言葉にする。
確認するみたいに。
確かめるみたいに。
胸の奥に、ほんの微かな熱が戻る。
さっきまで、何もなかったはずなのに。
完全に折れたはずなのに。
それでも。
(消えてない)
全部じゃない。
ほんの欠片だけでも。
確かに、残っている。
記憶じゃなくて。
名前でもなくて。
もっと曖昧で、でも確かなもの。
“理由の分からない感情”。
それが、あいつの中に残っている。
「……だったら」
膝に置いていた手に、少しだけ力が入る。
震えていた指先が、わずかに動く。
立ち上がるほどの力は、まだない。
それでも。
(終わりじゃない)
そう思ってしまった。
思ってしまった以上、もう戻れない。
諦めきれない。
完全に、手放すことができない。
「……まだ、いける」
ほとんど、囁きみたいな声で。
自分に言い聞かせる。
壊れたままの心で。
それでも、もう一度だけ。
伸ばそうとしてしまう。
届かないかもしれない手を。
それでも――
ほんのわずかに残った火が、消えきらずに灯っていた。




