5
気づけば、足は教室へ戻っていた。
行くあてもなくて。
でも、どこかで――
“ここならまだ何か残っているかもしれない”って、思ってしまった。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
深呼吸をするみたいに、息を吸って。
(……大丈夫)
何が大丈夫なのかも分からないまま、そう言い聞かせる。
そして、扉を開けた。
放課後の教室。
人はもうほとんど残っていない。
窓際の席に、ひとりだけ。
――神代がいた。
机に肘をついて、スマホをいじっている。
いつも通りの姿。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
(……よかった)
まだ、いる。
まだ――
私は、ゆっくりと歩み寄る。
一歩ずつ。
逃げられないように、慎重に。
声をかけるタイミングを探しながら。
「……神代」
名前を呼ぶ。
ほんの少しだけ、震えた声で。
神代が顔を上げる。
視線が、合う。
一瞬。
ほんの一瞬だけ――
何かが引っかかることを、期待した。
これまでみたいに。
「どこかで会った気がする」って。
そう言ってくれることを。
でも。
「……誰だ?」
その一言で。
全部、崩れた。
間違いなく、初対面の目だった。
探るような気配も。
引っかかりも。
何もない。
ただ、“知らない相手を見る目”。
(……あ)
息が、止まる。
何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。
喉が、からからに乾いている。
「……あの」
やっとのことで、声を絞り出す。
でも、それ以上が続かない。
何を言えばいいのか、分からない。
これまでなら。
何度もやり直してきたはずなのに。
どこから話せばいいのか、もう思い出せない。
神代は、不思議そうに眉をひそめる。
「用?」
それだけ。
短い言葉。
距離を測るみたいな声音。
そこにはもう、“無意識の近さ”すらなかった。
(……違う)
昨日までとは、明らかに違う。
あの、“理由は分からないけど放っておけない”っていう感じが。
欠片も、残っていない。
完全に。
綺麗に。
リセットされている。
「……」
口を開く。
閉じる。
言葉が見つからない。
何を伝えればいいのか。
どうすれば、届くのか。
分からない。
全部、分からない。
「……何もないなら、いいけど」
神代が、少しだけ視線を逸らす。
興味を失ったみたいに。
それだけで、十分だった。
“終わった”って、分かるには。
(……嘘だろ)
心の中で、呟く。
でも、その言葉すら、どこか遠くに感じる。
(昨日まで)
あんなに、近くにいたのに。
笑って。
話して。
約束までして。
(……一番、残ってほしかったのに)
胸の奥が、静かに崩れていく。
痛いはずなのに。
痛みすら、うまく感じられない。
ただ、空っぽになっていく感覚だけが残る。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
誰に向けてなのかも分からないまま。
神代は首をかしげる。
「いや、別に謝られるようなことされてないけど」
当然の反応。
何も知らない人の、普通の返し。
それが、どうしようもなく遠い。
「……そっか」
小さく頷く。
それ以上、何も言えなかった。
ここにいても。
もう、意味がない気がして。
踵を返す。
一歩、歩く。
床に足が触れているはずなのに、その感覚さえ曖昧で。
それでも、進むしかなかった。
背中に、何も感じない。
呼び止められることもない。
視線すら、向けられない。
それが、答えだった。
――本当に、全部なくなったんだって。
教室の扉に手をかける。
一瞬だけ、振り返りそうになる。
でも。
やめた。
もう、確認する必要もなかった。
扉を開けて、外に出る。
そのまま、静かに閉める。
音だけが、やけに大きく響いた。
それで。
完全に、終わった気がした。




