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君は何度も僕を忘れる  作者: 南蛇井


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4

 教室を出たあとも、足は止まらなかった。


 どこに向かうわけでもなく、ただ歩く。


 廊下を抜けて、階段を降りて、人気の少ない校舎の端へ。


 気づけば、鏡のある手洗い場の前に立っていた。


 蛇口から落ちる水音だけが、やけに大きく響いている。


(……ここなら)


 誰もいない。


 そう思った瞬間、少しだけ息が楽になる。


 けれど同時に、胸の奥が冷たくなる。


 “誰もいない場所”が、こんなにも安心するなんて。


 そんなこと、前はなかったのに。


 ゆっくりと、鏡を見る。


 そこに映っているのは――


「……」


 一瞬、言葉を失う。


 ちゃんと、いる。


 私の顔が、そこにある。


 でも。


(……薄い)


 違和感が、じわじわと広がる。


 輪郭が、はっきりしない。


 光に溶けていくみたいに、境界が曖昧で。


 まるで、ガラス越しに見ているみたいだった。


「……なに、これ」


 思わず、鏡に手を伸ばす。


 触れる。


 はずだった。


 指先が、鏡に当たる。


 けれど。


(……軽い)


 感触が、妙に薄い。


 確かに触れているのに、触れていないみたいな。


 現実感が、ない。


 水を出す。


 指先を差し入れる。


 冷たいはずの水が、ただ“通り抜ける”感覚だけを残して流れていく。


「……嘘でしょ」


 手を引く。


 水滴が、ほとんど残っていない。


 さっきまでなら、ちゃんと濡れていたはずなのに。


(……触ってる、よね?)


 自分の手を見る。


 ちゃんと、ある。


 指も、爪も。


 見た目は何も変わっていない。


 なのに。


 実感だけが、どんどん遠くなっていく。


 背後で、足音がした。


 反射的に振り向く。


 クラスの女子が二人、話しながら入ってくる。


 笑い声。


 何気ない会話。


 いつも通りの、日常。


 私は、少しだけ安心して。


「ねえ――」


 声をかける。


 けれど。


 二人は、そのまま通り過ぎた。


 視線すら、向けない。


 まるで。


 最初から、そこに“何もなかった”みたいに。


「……」


 声が、喉で止まる。


 もう一度、口を開く。


「ねえってば」


 さっきより少し強く。


 でも。


 届かない。


 音は出ているはずなのに。


 空気に溶けて、消えていく。


 二人は鏡の前で立ち止まり、普通に会話を続けている。


 すぐ隣に、私がいるのに。


(……見えてない)


 はっきりと、分かる。


 さっきまでの“忘れられる”とは違う。


 これはもう――


 “最初から存在していない”扱いだ。


 一歩、近づく。


 肩が触れる距離まで。


 でも。


 ぶつからない。


 すり抜けるように、距離がずれる。


 私の方が、現実からずれているみたいに。


「……今の、私に言ったよね?」


 さっきの記憶が、蘇る。


 違う。


 あれはもう、“私に向けられた言葉”ですらなかった。


「……私、本当にいるのか?」


 ぽつりと、呟く。


 返事はない。


 当たり前だ。


 誰にも、聞こえていない。


 鏡の中の自分を見る。


 さっきよりも、さらに輪郭が薄くなっている気がした。


 背景と混ざって。


 どこまでが“私”なのか、分からなくなる。


「……もう」


 言葉が、震える。


「消えてるのと、同じじゃないか」


 指先が、わずかに透けて見えた気がした。


 錯覚かもしれない。


 でも。


 否定する自信が、もうなかった。


 ここに立っているのに。


 ここに、確かにいるのに。


 世界のどこにも――


 私は、存在していないみたいだった。


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