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教室を出たあとも、足は止まらなかった。
どこに向かうわけでもなく、ただ歩く。
廊下を抜けて、階段を降りて、人気の少ない校舎の端へ。
気づけば、鏡のある手洗い場の前に立っていた。
蛇口から落ちる水音だけが、やけに大きく響いている。
(……ここなら)
誰もいない。
そう思った瞬間、少しだけ息が楽になる。
けれど同時に、胸の奥が冷たくなる。
“誰もいない場所”が、こんなにも安心するなんて。
そんなこと、前はなかったのに。
ゆっくりと、鏡を見る。
そこに映っているのは――
「……」
一瞬、言葉を失う。
ちゃんと、いる。
私の顔が、そこにある。
でも。
(……薄い)
違和感が、じわじわと広がる。
輪郭が、はっきりしない。
光に溶けていくみたいに、境界が曖昧で。
まるで、ガラス越しに見ているみたいだった。
「……なに、これ」
思わず、鏡に手を伸ばす。
触れる。
はずだった。
指先が、鏡に当たる。
けれど。
(……軽い)
感触が、妙に薄い。
確かに触れているのに、触れていないみたいな。
現実感が、ない。
水を出す。
指先を差し入れる。
冷たいはずの水が、ただ“通り抜ける”感覚だけを残して流れていく。
「……嘘でしょ」
手を引く。
水滴が、ほとんど残っていない。
さっきまでなら、ちゃんと濡れていたはずなのに。
(……触ってる、よね?)
自分の手を見る。
ちゃんと、ある。
指も、爪も。
見た目は何も変わっていない。
なのに。
実感だけが、どんどん遠くなっていく。
背後で、足音がした。
反射的に振り向く。
クラスの女子が二人、話しながら入ってくる。
笑い声。
何気ない会話。
いつも通りの、日常。
私は、少しだけ安心して。
「ねえ――」
声をかける。
けれど。
二人は、そのまま通り過ぎた。
視線すら、向けない。
まるで。
最初から、そこに“何もなかった”みたいに。
「……」
声が、喉で止まる。
もう一度、口を開く。
「ねえってば」
さっきより少し強く。
でも。
届かない。
音は出ているはずなのに。
空気に溶けて、消えていく。
二人は鏡の前で立ち止まり、普通に会話を続けている。
すぐ隣に、私がいるのに。
(……見えてない)
はっきりと、分かる。
さっきまでの“忘れられる”とは違う。
これはもう――
“最初から存在していない”扱いだ。
一歩、近づく。
肩が触れる距離まで。
でも。
ぶつからない。
すり抜けるように、距離がずれる。
私の方が、現実からずれているみたいに。
「……今の、私に言ったよね?」
さっきの記憶が、蘇る。
違う。
あれはもう、“私に向けられた言葉”ですらなかった。
「……私、本当にいるのか?」
ぽつりと、呟く。
返事はない。
当たり前だ。
誰にも、聞こえていない。
鏡の中の自分を見る。
さっきよりも、さらに輪郭が薄くなっている気がした。
背景と混ざって。
どこまでが“私”なのか、分からなくなる。
「……もう」
言葉が、震える。
「消えてるのと、同じじゃないか」
指先が、わずかに透けて見えた気がした。
錯覚かもしれない。
でも。
否定する自信が、もうなかった。
ここに立っているのに。
ここに、確かにいるのに。
世界のどこにも――
私は、存在していないみたいだった。




