9
夕暮れの帰り道。
オレンジ色の光が、長く影を伸ばしている。
隣を歩く神代は、いつも通りで。
何も変わらない顔で、何気ない話をしていた。
そのはずなのに。
「なあ」
不意に、声のトーンが変わる。
少しだけ、低くなる。
足が、わずかに緩む。
「……俺さ」
神代が、前を向いたまま言う。
言葉を選ぶみたいに、間を置いて。
その横顔が、どこか迷っているように見える。
「お前のこと」
一瞬、息が止まる。
「忘れてる気がするんだよな」
その言葉が、静かに落ちる。
心臓が、大きく跳ねる。
時間が、止まったみたいに感じる。
神代は続ける。
自分でも分からない何かを、確かめるみたいに。
「なのにさ」
わずかに眉を寄せる。
「なんでこんなに気になるんだろうな」
困ったように笑う。
でも、その目は笑っていない。
真剣に、戸惑っている。
答えを探している。
(……気づいてる)
完全じゃない。
言葉にもなっていない。
それでも。
核心に、触れている。
今まで何度も繰り返してきた、この関係の“歪み”に。
ようやく、手が届きかけている。
胸の奥が、強く震える。
嬉しさと。
怖さが。
一気に押し寄せてくる。
ここで何かを言えば、変わるかもしれない。
全部、伝えてしまえば。
このループを、壊せるかもしれない。
それでも――
「……気のせいじゃない?」
口から出たのは、そんな言葉だった。
逃げるみたいに。
壊さないために。
守るために。
「そうかな」
神代は、納得しきれない顔のまま呟く。
それでも、それ以上は追及してこない。
ただ、小さく息を吐いて。
「でもさ」
もう一度、続ける。
「理由は分かんねえけど」
ちらりと、こちらを見る。
その視線が、まっすぐで。
「お前のこと、放っておけないんだよな」
その言葉に、胸の奥が締めつけられる。
何度も聞いてきたはずの言葉。
それでも。
今、このタイミングで聞くと。
意味が、まるで違う。
(……分かってるのに)
気づきかけているのに。
それでも、神代は変わらない。
それでも、私を選ぶ。
何も知らないまま。
何も覚えていないまま。
それでも。
ここまで、辿り着いてしまう。
――何度でも。
「……そっか」
小さく答える。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
夕焼けの中。
並んで歩く影が、少しだけ重なる。
触れてはいないのに。
離れてもいない距離で。
その曖昧な境界線が――
今の私たち、そのものみたいだった。




