8
放課後。
チャイムが鳴り終わるのを待たずに、神代が立ち上がる。
そのまま、迷いなくこちらに来る。
「帰るだろ」
当たり前みたいに言う。
名前も呼ばない。
それでも、まっすぐ私を見ている。
「……うん」
頷くと、神代はそれ以上何も聞かずに歩き出す。
私は、その隣に並ぶ。
この距離も。
この流れも。
もう、説明なんていらないくらい自然になっている。
(……選んでる)
毎回。
何も覚えていないはずなのに。
それでも、神代は迷わず私のところに来る。
それが、どれだけ嬉しいか。
どれだけ救われているか。
分かっているのに――
「なあ」
神代が、ふとこちらを見る。
「さっきさ」
一瞬、言葉が止まる。
「……何の話してたっけ」
その一言で、現実に引き戻される。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「……プリントの話」
「あー、それか」
適当に頷く。
本当に思い出したわけじゃない。
ただ、流れに乗っただけ。
(……まただ)
ついさっきの会話すら、もう残っていない。
それなのに。
神代は、ふと手を伸ばす。
歩きながら、私の腕を軽く引く。
「危ないって」
すぐ横を、自転車が通り過ぎる。
何気ない動作。
反射みたいなもの。
でも。
その手の温度が、はっきりと伝わる。
(……触れてる)
現実として。
確かに、ここにある。
「サンキュ」
小さく言う。
「気にすんな」
神代はすぐに手を離す。
何もなかったみたいに。
そのまま、前を向いて歩き続ける。
そして――
「なあ」
また、声。
「お前さ」
一瞬、期待してしまう。
さっきの流れの続きかもしれないと。
「……名前、なんだっけ」
その言葉が、静かに落ちる。
胸の奥で、何かが崩れる音がする。
分かっていたはずなのに。
何度も経験してきたはずなのに。
それでも。
この瞬間だけは、どうしても慣れない。
「……澪」
短く答える。
「澪、ね」
神代は繰り返す。
確かめるみたいに。
でも、その表情に、さっきまでの記憶は一切ない。
ただ、新しく聞いた名前をなぞっているだけ。
(……近づいてるのに)
距離は、こんなにも近い。
言葉も。
仕草も。
感情も。
全部、前よりも確かになっている。
それなのに。
(遠ざかってる)
土台が、追いつかない。
積み重なる前に、崩れていく。
さっき触れた手の温度も。
交わした言葉も。
全部、次の瞬間には消えてしまう。
「……どうした」
神代が、不思議そうに覗き込む。
少しだけ顔が近い。
「なんか、変な顔してる」
「してない」
即答する。
これ以上、何かがこぼれないように。
「そうか?」
「うん」
無理やり、口角を上げる。
笑う。
いつもみたいに。
そうしないと、壊れてしまいそうで。
神代もつられて笑う。
何も知らないまま。
何も気づかないまま。
それでも、隣にいてくれる。
だからこそ。
余計に、苦しい。
(……それでも)
足は止まらない。
この距離を、手放せない。
どれだけ崩れても。
どれだけ消えても。
それでも、神代は私を選ぶ。
その事実だけが――
唯一、消えないものみたいに思えた。




