5
放課後の廊下。
人の流れが少しずつ減っていく中、私は一人で教室を出た。
――今日は、神代と帰る約束はない。
“約束”なんて、意味がないと分かっているから。
角を曲がったところで、小さな影とぶつかりそうになる。
「あ、すみませんっ」
慌てて止まったのは、ひとつ下の学年の女子だった。
短めの髪に、少しだけきつめの目。
見覚えは――ある。
(……後輩の、玲)
たしか、何度かすれ違っている。
そのたびに、少しだけこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「はい……あの」
玲は顔を上げて、私を見る。
その視線が、ほんの少しだけ長く止まる。
普通なら、一瞬で終わるはずの“確認”が、終わらない。
「……先輩」
「うん?」
「どこかで、会ってません?」
その言葉に、胸が小さく跳ねる。
でも、顔には出さない。
「同じ学校だしね」
いつもの答え。曖昧にぼかす。
けれど、玲はすぐに引き下がらなかった。
「それだけじゃなくて……」
眉を寄せて、少しだけ考え込む。
「なんか、もっと……」
言葉を探すように、視線が揺れる。
そして、ぽつりと。
「知ってる気がするんですよね」
静かな声だった。
確信はないのに、でも消えない違和感を抱えた声。
(……この子は)
違う。
他の人たちとは。
完全に忘れているわけじゃない。
でも、思い出せるわけでもない。
その“間”に、ずっと引っかかっている。
「……気のせいかもよ」
そう言いながらも、少しだけ息が浅くなる。
玲は納得していない顔のまま、じっとこちらを見ていた。
「……そう、かもしれないですけど」
一歩、近づく。
距離がほんの少し縮まる。
「でも、先輩のこと」
まっすぐな目で、言う。
「前にも見たとき、同じこと思ったんです」
――一度じゃない。
繰り返し、同じ違和感を抱いている。
「会うたびに、初めてな気がするのに」
小さく首を傾げる。
「でも、なんか……違うっていうか」
言葉にできない感覚を、必死に掴もうとしているみたいだった。
その様子に、胸の奥がざわつく。
(……残ってる)
ほんのわずかでも。
形にならなくても。
この世界から完全に消えているわけじゃない。
そんな可能性が、目の前にある。
「……名前、教えてもらっていいですか」
玲が言う。
その声には、ちゃんと“知ろうとする意志”があった。
私は一瞬だけ迷ってから、口を開く。
「朝霧澪」
「……澪先輩」
小さく、繰り返す。
その呼び方が、やけにくっきりと耳に残る。
「……やっぱり、変です」
玲はぽつりと呟いた。
「忘れるはずなのに、忘れきれない感じがする」
その言葉に、息が止まりそうになる。
――忘れる“はず”。
まるで、それが前提みたいに。
「また、会ったら」
玲は少しだけ真剣な顔で続ける。
「たぶん、また同じこと聞くと思います」
自嘲気味に、小さく笑う。
「でも、そのときも」
一瞬だけ、視線が強くなる。
「きっと、気づくと思うんです」
言い切る。
根拠なんてないのに。
それでも、迷いなく。
「……なんか、おかしいって」
廊下の窓から差し込む光の中で、玲の言葉だけが静かに残る。
誰も気づかない“異常”を。
この子だけが、ずっと引っかかり続けている。
(……もし)
ほんの少しだけ、思ってしまう。
もし、この違和感が積み重なっていったら。
いつか、本当に――
そこまで考えて、やめる。
期待は、何度も裏切られてきたから。
それでも。
「……またね」
自然に、その言葉が出る。
玲は一瞬驚いた顔をしてから、小さく頷いた。
「はい、先輩」
その返事が、なぜか少しだけ――
消えにくいものに感じられた。




