第1章:はじまり シーン①
――今日も、ここから始まる。
教室のドアに手をかけて、私は一度だけ深呼吸をした。
開ける前から分かっている。
この先で起きることも、返ってくる言葉も。
それでも、逃げる理由にはならない。
ガラ、と軽い音を立ててドアを開ける。
朝の教室。ざわざわとした声、椅子を引く音、いつも通りの景色。
その中で――一人だけ、私の視線を引く人がいる。
窓際の席。頬杖をついて外を見ている男子。
神代恒一。
私は迷わず、その席へ歩いていく。
足取りは、できるだけ自然に。
何度も繰り返してきた“初対面”を、今日もなぞるみたいに。
「おはよう」
声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
――ほんの少しだけ、期待してしまう。
けれど。
「……えっと」
神代は眉をひそめて、私を見た。
探るような視線。知らないものを見るときの、あの目。
そして、少し間を置いてから――
「誰?」
やっぱり。
胸の奥が、きゅっと縮む。
慣れているはずなのに、慣れることなんてできない痛みが、同じ場所に残る。
……でも。
私はそれを表に出さない。
少しだけ首を傾げて、困ったように笑う。
「朝霧澪。同じクラス」
できるだけ軽く、何でもないことみたいに。
「へえ……悪い、全然覚えてなくて」
「いいよ。よくあるから」
“よくある”なんて、普通は言わない言葉を、私は自然に口にする。
神代は一瞬だけ不思議そうな顔をしたけど、すぐに「ああ、そうなんだ」と納得したみたいに頷いた。
その反応も、もう知っている。
全部、何度も見てきたから。
「席、どこ?」
「窓際の後ろから二番目」
「あ、近いな」
彼はそれだけ言って、興味を失ったみたいに視線を外す。
会話は、そこで終わる。
――いつも通りの終わり方。
私は一歩だけその場に立ち止まって、それから自分の席へ向かう。
背中に視線は感じない。
もう、振り返られることもない。
(……これで、何回目だっけ)
数えようとして、やめる。
数えたところで意味はない。
どうせ明日には、また同じことを繰り返すだけだから。
私のことも、この会話も、この一瞬も。
全部、最初からなかったみたいに消えていく。
それでも。
私はまた、明日もここに来る。
同じドアを開けて、同じように声をかける。
「おはよう」って。
たとえ、その先に待っている言葉が分かっていたとしても。
――それでも、やめられない理由があるから。




