第8話 パンデミックの危機
その日の『怠惰の園』は、重苦しい空気に包まれていた。
いつもなら、騎士たちが緩みきった顔でコーヒーを啜っている時間だ。
だが今日は、客が一人もいない。
カウンターに座っているのは、ヴォルフガングただ一人。
彼は、見たこともないほど険しい顔で、一枚の羊皮紙を睨んでいた。
「……事態は、そこまで深刻なのですか」
私が尋ねると、彼は重く頷いた。
「ああ。王都からの急報だ。……『魔カビ』が発生したらしい」
「魔カビ……」
私は眉をひそめた。
湿気と不浄を好む、微細な魔物だ。
人体に付着すると皮膚を腐らせ、肺に入れば呼吸困難を引き起こす。
いわゆる、魔法的なパンデミックだ。
「下街を中心に感染が拡大し、既に死者が出ている。……貴族街も時間の問題だそうだ」
「でしょうね。私の結界が消えて、あの街は今、巨大な培養槽みたいなものですから」
私は冷淡に分析した。
掃除をサボったツケが回ってきたのだ。
「だが、解せぬことがある」
ヴォルフガングが首を傾げた。
「王都には聖女アリス嬢がいる。彼女が連日、広場で大規模な『治癒魔法』を使っているそうなのだが……治るどころか、感染爆発が加速しているらしい」
「……はぁ」
私は深いため息をつき、天井を仰いだ。
やっぱり。やらかしたか、あの馬鹿妹。
「当然ですよ。ヴォルフガング様、カビは『生物』です」
「む? ああ」
「聖女の魔法は『生命力の活性化』です。人間にかければ傷が治りますが、カビにかけたらどうなると思います?」
「……! まさか」
ヴォルフガングが目を見開いた。
「そうです。彼女は毎日、カビに『超強力な栄養剤』を散布しているようなものです。爆発的に増えて当たり前です」
「なんという……! 無知とは罪か!」
彼はバン、とカウンターを叩いた。
「では、どうすればいい? 物理攻撃も効かん、聖女の魔法も逆効果。……王家は、ついに貴殿に正式な救援要請を出してきた」
彼は羊皮紙を私に見せた。
そこには、国王の震える筆跡でこう書かれていた。
『マリー・ローゼンバーグ嬢の帰還を要請する。過去の非礼は不問にする。国を救え』
懇願だ。いや、まだ少し上から目線か。
あのプライドの高い王家が、なりふり構っていられないほど追い詰められている証拠だ。
「……マリー」
ヴォルフガングが、初めて私の名を呼んだ。
店主殿でも、貴殿でもなく。
「私は、君を政治の道具にするつもりはない。君が『嫌だ』と言えば、この紙は破り捨てる。たとえ王命でも、私が君を守る」
彼の瞳は真剣だった。
国に忠誠を誓う騎士団長が、国よりも私個人の意思を優先すると言っているのだ。
胸の奥が、きゅっと痛くなる。
この人は、本当に不器用で、誠実すぎる。
(……行くのは嫌だ)
それは本音だ。
王都までは馬車で数日かかる。
揺れる馬車での移動は疲れるし、今の王都はカビだらけで、空気も最悪だろう。
そんな場所に行けば、私の肺まで汚れてしまう。
けれど。
「……放置すれば、どうなりますか?」
「王都は壊滅し、生き残った民衆は難民となって、この辺境へ押し寄せるだろうな」
「それは困ります」
私は即答した。
難民が来れば、治安は悪化し、物価は上がり、私のスローライフは終了する。
この店の周りがテント村になるなんて、悪夢以外の何物でもない。
「分かりました。手を打ちましょう。私の平穏のために」
「行ってくれるのか?」
「いいえ、行きません」
私は首を横に振った。
「移動が面倒です。外に出たくありません。……なので、『リモート』で解決します」
「リモート?」
「ええ。ちょっと待っていてください」
私はカウンターの下から、以前から試作していた魔道具を取り出した。
白い、滑らかな曲線を描く、高さ一メートルほどの円柱だ。
デザイン性は皆無。ただの白い棒である。
「名付けて、『白き巨人』一号ちゃんです」
「……見た目はただの柱だが?」
「中身は『超広域・空気清浄機』です。これを王都の広場に突き刺してください」
私はその柱をポンと叩いた。
「原理は簡単です。聖女の魔法が『活性化』なら、これは逆の『滅菌』の波動を出します。私が店で使っている洗浄魔法の、殺傷能力を高めたやつですね」
「殺傷能力……? 人間に害は?」
「カビと汚れだけを標的にするよう設定してあります。人間が浴びると……そうですね、肌がツルツルになって、加齢臭が消えるくらいの副作用しかありません」
「それは副作用ではなく『恩恵』と言うのではないか?」
ヴォルフガングが呆れたように言った。
「ただし、設置が必要です。私はここから動きたくないので……」
私は上目遣いで彼を見た。
「ヴォルフガング様、お願いできますか?」
「……ふっ」
彼はニッと笑った。
「喜んで引き受けよう。君を汚い場所に連れて行くより、私が走る方が遥かに合理的だ」
「ありがとうございます。では、貴方の馬も改造しておきますね」
私は店の外へ出た。
彼の愛馬『疾風号』に、強化魔法をかける。
『風纏い(エアロ・ブースト)』――空気抵抗ゼロ。
『重力軽減』――積載重量無視。
『衝撃吸収』――乗り心地改善。
「これで、王都まで四時間で着きます」
「……四時間? 通常なら三日はかかるぞ?」
「音速の壁を超えるかもしれませんが、結界の中なら無風なので大丈夫です」
「……君の『大丈夫』は、たまに常識を超えるな」
ヴォルフガングは苦笑しながら、百キロ近い『白き巨人』を軽々と担ぎ上げ、馬に括り付けた。
「必ず戻る。……夕食までには」
「はい。今日はシチューを作って(自動調理器が)待っています」
「楽しみにしている」
ヒヒィィン!
強化された馬がいななき、残像を残して消え去った。
爆風だけが遅れて届く。
「……ふぅ」
私は一人になった店内で、コーヒーを淹れた。
もちろん、全自動で。
「さて、リモートワークといきますか」
私は手元の水晶板を起動した。
これは『白き巨人』の核と共鳴しており、遠隔操作と視覚共有が可能だ。
画面には、高速で流れる景色が表示されている。
速すぎて酔いそうだ。
(到着予定時刻、午後六時……)
私は画面を見つめながら、角砂糖を齧った。
聖女アリス。元婚約者フレデリック。
彼らは今頃、自分たちが招いた惨状の中で、何を思っているのだろうか。
「せいぜい、私の作ったオモチャに感謝することね」
私は冷めた目で呟いた。
私が送ったのは、ただの「強力な空気清浄機」だ。
だが、あの原始的な王都の人々には、それが「神の奇跡」に見えるかもしれない。
(まあ、どう評価されようと、私はここから一歩も出ないけどね)
私はクッションに沈み込み、彼が到着するまでの間、少しだけ仮眠を取ることにした。
世界を救う仕事は、パジャマのままやるくらいが丁度いい。




