第7話 実家からの帰還命令
「……臭い」
私はベッドの上で顔をしかめ、鼻をつまんだ。
高性能な空気清浄結界が張られているこの店内で、異臭がするはずがない。
だが、換気ダクトの向こうから、微かに、けれど確実に、腐った果実とカビの混じったような臭いが漂ってくる。
『警告。店外に衛生レベル低下要因が接近中』
スピーカーが無機質な声を上げた。
直後、ドンドン!! と扉を叩く乱暴な音が響いた。
「開けろ! いるのは分かっているんだぞ、マリー!」
ヒステリックな叫び声。
聞き間違えるはずもない。元婚約者、フレデリック殿下の声だ。
「はぁ……」
私は深いため息をついた。
ついに来たか。
手紙を焼いたから諦めるかと思ったが、逆に火をつけてしまったらしい。
「モニタ、オン。……一階に降りるなんて自殺行為だわ」
私は指先を動かす。
寝室の天井に映し出された外部カメラの映像を見て、私は絶句した。
「……誰? ゾンビ?」
そこにいたのは、薄汚れた浮浪者――ではなかった。
よく見れば、着ているのは最高級のシルクの服だ。
だが、その服は黄ばみ、所々にシミがあり、袖口はカビで黒ずんでいる。
金髪は脂ぎってペタリと額に張り付き、目の下には濃いクマ。
かつての「キラキラ王子様」の面影はどこにもない。
隣にいる父(公爵)も同様だ。自慢の髭には食べかすのようなものが付着している。
乗ってきた馬車も酷い。車輪が歪み、塗装が剥げ落ちている。
(私の『整備魔法』が切れて、道中で故障しまくったのね……)
私は冷ややかに分析した。
ざまぁみろ、と思う以前に、生理的な嫌悪感が勝つ。
「マリー! 隠れていないで出てこい!」
殿下が扉を蹴り飛ばそうとしている。
私は枕元のマイクスイッチを入れた。
店外スピーカーから、私の声を響かせる。
『お引き取りください。臭いが移ります』
「なっ……! 貴様、姿も見せずに!」
殿下がカメラに向かって吠えた。
『当店は会員制です。会員証をお持ちでない方、および衛生基準を満たしていない汚物の入店は固くお断りしております』
「ふざけるな! 私は王子だぞ! 国の命令だ! 今すぐ出てきてこの服を直せ! 馬車を直せ!」
「そうだマリー! 親に向かってなんだその態度は!」
父も横から叫んだ。
その拍子に、父の服からプン、と埃が舞ったのがカメラ越しでも分かった。
『お父様。……いえ、ローゼンバーグ公爵』
私は冷淡に告げた。
『今まで貴方たちが快適に過ごせていたのは、私が魔力を削って屋敷や道具を『維持』していたからです。それを『無能』と切り捨てた結果が、その姿でしょう?』
「ぐぬっ……!」
『私は今の生活が気に入っています。毎日よく寝て、清潔な服を着て、美味しいものを食べる。……わざわざカビだらけの牢獄に戻る理由が、一つもありません』
「だ、黙れ!!」
殿下の顔が怒りで紫色になった。
「ええい、構わん! 衛兵! この扉を破壊せよ! 女一人だ、引きずり出して王都へ連れ帰る!」
殿下が後ろに控えていた数名の兵士に命令した。
強行突破だ。なりふり構わなくなってきたらしい。
兵士たちが斧やハンマーを構え、扉に向かってくる。
『警告。物理攻撃を検知。迎撃システム、チャージ開始』
店内の防衛結界が唸りを上げる。
私は「撃っちゃおうかな」と迷った。
だが、王族を黒焦げにすると、後の処理が面倒だ。
その時である。
「――そこで何をしている」
地を這うような低い声が、響き渡った。
空気が凍りついた。
兵士たちが動きを止める。
殿下と父が、ギギギと音を立てるように振り返った。
そこには、漆黒のオーラを纏った鬼神が立っていた。
ヴォルフガングだ。
彼の後ろには、数十名の武装した騎士たちが控えている。
全員、私の店の「会員」であり、私の安眠を守る親衛隊だ。
「ヴォ、ヴォルフガング……?」
殿下が引きつった声を出す。
「貴様、ここで何を……。見ろ、この女は王族の命令を拒否している! 反逆罪だ! 捕らえろ!」
「お断りします」
ヴォルフガングは氷のような瞳で殿下を見下ろした。
「現在、この辺境領域は『対魔物特別警戒態勢』が敷かれています。この区域内において、指揮官である私の許可なく武装蜂起し、民間施設を襲撃する行為は、テロリズムとみなされます」
「なっ……テロだと!? 私は王子だぞ!」
「戦時法に王族の免責事項はありません。……これ以上、騒ぎを起こすなら」
カシャン。
ヴォルフガングが剣の鯉口を切った。
それに呼応して、後ろの騎士たちも一斉に抜刀する。
殺気が、物理的な風圧となって殿下たちを襲った。
「不審者として拘束し、地下牢へ投獄します。……そこの環境は、今の王都よりも劣悪ですが、よろしいですか?」
「ひっ……!」
殿下が腰を抜かした。
今の彼らに、騎士団と戦う力はない。
服も装備もボロボロで、士気も最低なのだから。
「く、くそっ……! 覚えておけ! このままでは済まさんぞ!」
「行くぞ、ローゼンバーグ公! ここは野蛮人の巣窟だ!」
殿下と父は、捨て台詞を吐いて逃げ出した。
軋む音を立てるボロ馬車に乗り込み、煙を上げて去っていく。
その背中は、かつての威光など見る影もなく、ただただ小さく見えた。
嵐が去った。
「……ふぅ」
私はモニタを切り、ようやく一階へ降りた。
扉を開けると、ヴォルフガングが立っていた。
まだ少し、彼らの残した異臭が漂っている。
「浄化」
私は指を鳴らし、店前の空気を完全消臭した。
これでようやく深呼吸ができる。
「助かりました、ヴォルフガング様」
「……間に合ってよかった」
ヴォルフガングが振り返る。
その顔は、先程までの鬼神の表情から一変し、安堵に緩んでいた。
「怖かっただろう。……だが、彼らが去り際に言っていた『無能』という言葉、聞き捨てならん」
彼は悔しそうに拳を握りしめた。
「彼らは理解していない。彼女は……君は、我が騎士団の『特別技術顧問』であり、この国境警備の要だというのに」
「顧問?」
「そうだ。君の提供する『休息』と『補給』がなければ、我々はとっくに瓦解していた。……つまり、君を奪うということは、この国の国防を崩壊させるに等しい」
ものすごい拡大解釈だ。
ただのカフェ店員を、国家機密レベルに格上げしている。
だが、その真剣な響きに、私の胸は少しだけ熱くなった。
「……顧問料、高いですよ?」
「払おう。私の全財産でも足りないくらいだ」
冗談めかして言う彼に、私は肩をすくめた。
「そこまでは結構です。……その代わり、お礼に新作の魔道具を差し上げます」
「新作?」
「ええ。『全自動肩こり解消チェア・DX』です。貴方、最近書類仕事で肩がバキバキでしょう? 画面越しでも分かりました」
「……なぜバレた」
「職業病ですから」
私はクスクスと笑った。
かつての家族が去り、私の周りには、私を正しく評価してくれる「他人」たちがいる。
この距離感が、私には一番心地よかった。
「さあ、入りましょう。コーヒーを淹れます(ボタンを押します)」
私は彼を店内に招き入れた。
腐敗した王都の空気など、この強力な洗浄結界の中には、一ミリたりとも入れさせない。




