第5話 王都の崩壊
優雅な朝だ。
時刻は午後一時。世間では昼下がりだが、私にとっては朝である。
「んん……」
私は『人をダメにするクッション』の上で伸びをした。
店内には、コーヒーの良い香りが漂っている。
一階では、今日も騎士たちが静かに(ヴォルフガングに怒られるので)休憩を楽しんでいる気配がする。
平和だ。
会員制にしてから、客の質は向上し、収入は安定し、私は寝ているだけで金が入る。
これこそが私の求めていたスローライフ――。
ジジジジッ……!!
不快なノイズ音が、その静寂を切り裂いた。
「……何?」
目の前の虚空に、毒々しい赤色の魔法陣が出現する。
空間が歪み、そこから一通の封筒が、ペッと吐き出されるように落ちてきた。
封蝋には、見慣れた紋章。
実家であるローゼンバーグ公爵家の紋章だ。
「うわぁ……」
私は露骨に嫌な顔をした。
「これ、『強制探知通信』じゃない」
個人の居場所を特定するのではなく、登録された魔力波長を追跡して、一方的にメッセージをねじ込む国宝級の魔道具だ。
起動するだけで金貨百枚はかかるはず。
そんな税金の無駄遣いをしてまで、私に何を言いたいのか。
「読みたくない。開けるのも面倒」
そうは思ったが、内容を確認しないと、次は物理的な追手が来るかもしれない。
私は指先だけで封筒を操り、空中で開封させた。
中から便箋が飛び出し、自動的に音声再生(読み上げ)が始まる。
『マリー!! 貴様、屋敷に何をした!?』
元婚約者・フレデリック殿下のヒステリックな声が、二階の寝室に響き渡った。
私は即座に『消音結界』を張った。一階の客に聞かれたら恥ずかしい。
『先日の夜会は散々だった! 提供した料理はすべて腐り、ワインは酢になり、飾っていた花は一瞬で枯れ果てた!』
(へぇ、思ったより早かったわね)
私はあくびを噛み殺しながら聞き流す。
私が屋敷にかけていた『広域鮮度保持結界』の残存魔力が、ついに底をついたらしい。
『それだけではない! 屋敷中がカビ臭いのだ! 壁紙が剥がれ、銀食器が黒ずみ、ドレスにシミが浮き出てくる! アリスがいくら聖女の力で祈っても悪化するばかりだ! これは貴様の呪いに違いない!』
「呪いじゃないわよ。それが『時間の反動』ってやつよ」
私は独り言ちた。
私の魔法は、対象物の状態を定義し、固定するものだ。
つまり、屋敷の家具や食料は、魔法によって数年間「時間が止まっていた」に近い状態だった。
それが解除された今、止まっていた数年分の経年劣化(老化)が、一気に襲いかかっているのだ。
浦島太郎が玉手箱を開けたようなもの。
今頃、ピカピカだった屋敷は、十年放置された廃墟のように風化しているはずだ。
『今すぐ戻ってきて呪いを解け! そうすれば、追放処分を取り消し、側室として……いや、地下牢の清掃係として再雇用してやってもいい! これは命令だ!』
「……は?」
最後の一言で、私の眠気は完全に吹き飛んだ。
再雇用? 清掃係として?
私が一番嫌いな「労働」を、一番ブラックな環境でやれと?
「寝言は寝て言ってちょうだい。……あ、私はいっぱい寝てるけど」
プチン。
私は脳内で血管が切れる音を聞いた。
慈悲はない。
「起動。『自動焼却』」
私は指をパチンと鳴らした。
空中に浮かんでいた手紙と封筒が、青白い炎に包まれる。
『待て! まだ話は……ギャアアアア!』
再生されていた殿下の声が、断末魔のようなノイズに変わる。
手紙は一瞬で灰となり、さらにその灰も『洗浄魔法』で粒子レベルまで分解され、消滅した。
「ふぅ。スッキリした」
私は何事もなかったかのようにクッションに座り直した。
戻るわけがない。
あんなカビだらけ(物理)の屋敷、考えるだけで肌が痒くなる。
コンコン。
その時、一階から控えめなノック音が聞こえた。
監視モニタを見ると、ヴォルフガングが階段の下に立っていた。
「店主殿。……少し、いいだろうか」
「どうぞ」
私が許可を出すと、彼は静かに上がってきた。
その手には、血の滴る大きな肉塊が握られている。
「……それは?」
「差し入れだ。今朝、森で仕留めた『暴れ牛』の上ロースだ。迷惑でなければ、貰ってくれないか」
「!!」
私の目がカッと見開かれた。
暴れ牛。
王都の高級レストランでも滅多にお目にかかれない、Sランク食材である。
しかも、肉の色を見ればわかる。処理が完璧で、鮮度が抜群だ。
「いいのですか? こんな高価なものを」
「構わん。……実は、王都からの補給便が完全に止まってな」
ヴォルフガングは苦々しい顔で言った。
「届くはずの干し肉や小麦が、すべて廃棄処分レベルで腐敗していたそうだ。騎士団の食事もままならない。だから、我々自ら狩りに出ることにした」
「……なるほど」
手紙の内容は本当だったらしい。
公爵家(実家)の物流機能が麻痺しているのだ。
私の『時間固定』が切れた倉庫の食料は、一瞬で塵になったのだろう。
「王都では今、原因不明の『腐敗病』が流行っていると噂だ。……店主殿は王都出身だったな。実家は大丈夫か?」
ヴォルフガングが心配そうに私を見る。
「ええ、まあ。私の実家は……そういう『管理』を軽視する家系でしたので。自業自得でしょう」
私は肉塊を受け取り、即座に『冷凍・熟成魔法』をかけて収納した。
素晴らしいサシの入り方だ。これを炭火で焼けば……。
ジュルリ、と喉が鳴る。
だが、このサイズの塊肉を解体し、焼くのは面倒だ。油も跳ねるし。
……目の前に、ちょうどいい労働力がいるじゃない。
「ヴォルフガング様。このお肉、当店自慢の『全自動調理器』でステーキにしましょうか」
「! ……いいのか?」
「ええ。私一人では食べきれませんし、解体するのも面倒……いえ、新鮮なうちに食べるのが礼儀ですから」
私はニヤリと笑った。
「貴方がお肉をカットしてくだされば、最高の焼き加減を提供します。会員特典です」
「喜んでやろう。私の剣技は、こういう時のためにある」
ヴォルフガングの目が輝いた。
普段は鉄仮面のような彼だが、美味しいものを前にすると、わかりやすく表情が緩む。
そこが少し、大型犬みたいで可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
私は窓の外、遥か南の空を見上げた。
王都の方角だ。
今頃、あちらはカビと腐臭のパニックの真っ最中だろう。
「ざまぁみろ、なんて言うつもりはないけど」
私は呟いた。
「私の安眠を妨害するなら、次は手紙だけじゃ済まさないから」
私は小さく殺気を放ち、それからすぐに緩んだ顔で肉のメニューを考え始めた。
今日のディナーは、厚切りステーキだ。赤ワインも開けよう。
王都の崩壊など、美味しいお肉の前では些細なことだ。




