第1話 歓喜のあまり昼寝する
「マリー・ローゼンバーグ! 貴様との婚約を破棄する!」
王立学園の講堂。
シャンデリアが煌めく卒業パーティの会場に、よく通る声が響き渡った。
声の主は、この国の第二王子フレデリック殿下。
金髪碧眼の、絵に描いたような王子様だ。
その隣には、私の義理の妹である聖女アリスが、勝ち誇った顔で寄り添っている。
「……はぁ」
私は思わず、深いため息を吐いてしまった。
やれやれ、始まってしまった。
周囲の貴族たちがざわめく。
「あれが噂の無能令嬢か」
「聖女様の姉君なのに、地味な生活魔法しか使えないらしいぞ」
「魔力が低いから、次期王妃なんて無理だったんだ」
ひそひそ声が、さざ波のように広がる。
普通なら、顔面蒼白になって泣き崩れる場面だろう。
けれど、私の頭の中は別のことで一杯だった。
(早く帰りたい……)
このコルセット、きつすぎる。
ヒールも足が痛いし、立っているだけで体力が削られていく。
今すぐ締め付けのない部屋着に着替えて、愛用のクッションに沈み込みたい。
「聞いておるのか、マリー! 貴様のような無能で陰気な女は、王族に相応しくないと言ったのだ!」
殿下が柳眉を吊り上げて怒鳴る。
「ええ、聞いておりますわ。殿下」
私は極力、省エネな動きでカーテシーをした。
膝を曲げる角度は浅く、筋肉への負担が最小になるよう計算済みだ。
「それで、理由は『私が無能だから』ということでよろしいですね?」
「ふん、その通りだ! 貴様には高貴な攻撃魔法の適性が皆無! 使えるのは下賤なメイドごときが使う『生活魔法』のみ! 対してアリスはどうだ、傷を癒やす聖女の力を持っている!」
殿下はアリスの腰を抱き寄せ、鼻を鳴らした。
「よって、貴様を国外追放とする! 二度と我が国の土を踏めると思うな!」
国外追放。
その単語を聞いた瞬間。
(……きた!)
私の死んだような瞳が、カッと見開かれた。
追放。
それはつまり、王妃教育からの解放。
毎晩の面倒な夜会への参加義務消滅。
そして何より、実家の公爵家における果てしない「環境維持管理業務」からの引退。
(神よ……! いえ、殿下よ! もっと早く言ってくださればよかったのに!)
口元が緩みそうになるのを、必死に鉄の意志で抑え込む。
前世、私は日本のシステムエンジニアだった。
終わらないデスマーチの果てに過労死し、気づけばこの世界にいた。
だから誓ったのだ。
二度目の人生は、絶対に無理をしないと。
一秒でも長く寝て、楽をするために生きると。
それなのに、公爵家の長女という立場がそれを許さなかった。
だが今、その鎖が断ち切られたのだ。
「謹んで、お受けいたします」
私は懐から、一枚の書類を取り出した。
『婚約破棄同意書』だ。
署名欄には、三年前から私のサインが入っている。
「なっ……貴様、準備していたのか!?」
殿下が目を丸くする。
「ええ。殿下がアリスと仲睦まじいのは存じておりましたし、いつ言われてもいいように持ち歩いておりましたの。手続きは早いほうが、お互い時間を無駄にせずに済みますでしょう?」
私は書類を呆気にとられる従者に押し付け、にっこりと微笑んだ。
営業スマイルだ。前世で培った、心を無にする技術である。
「では、私はこれにて。……ああ、そうだ」
私は踵を返しそうになって、足を止めた。
大事なことを忘れていた。
これを確定させておかないと、快適な隠居生活が始まらない。
「慰謝料はいただきませんが、その代わり条件がございます」
「条件だと? 追放される身分で!」
「私が屋敷に持ち込んだ、あるいは私が作成した『私物』は、すべて持って行きます。私が開発した魔道具や、家具の一切です。よろしいですね?」
殿下は鼻で笑った。
「ふん、あんな古臭い家具やゴミを持って行く気か。好きにしろ! 公爵家にはもっと高級な調度品がある!」
「ありがとうございます。証言、いただきました」
言質は取った。
周りには大勢の証人もいる。
「では、遠慮なく」
私は指をパチンと鳴らした。
発動するのは、私が独自に改良した生活魔法『収納』。
本来なら小さな鞄一つ分しか入らない初歩魔法だが、圧縮アルゴリズムを極限まで効率化した私の魔法は、容量が桁違いだ。
――シュンッ。
その瞬間、私が身につけていた装飾品の一部や、予備のハンカチなどが光の粒子となって消え、亜空間へと収納された。
そして同時に、遠く離れた公爵邸でも「私の魔力が登録されたアイテム」が一斉に収納されたはずだ。
「お姉様……? 今、何を……」
アリスが首を傾げる。
魔力感知の鈍い彼女には、何が起きたか分からなかったようだ。
「いいえ、ただの荷造りよ。アリス、屋敷の管理、頑張ってね」
私は本心からのエールを送った。
本当に、ものすごく、絶望的に大変になるはずだから。
私の『私物(全自動魔道具)』がなくなった屋敷がどうなるか。
想像するだけで恐ろしいが、もう私には関係のないことだ。
「では、ごきげんよう」
私はドレスの裾を翻した。
背中に浴びせられる罵倒も、今の私には自由へのファンファーレにしか聞こえなかった。
◇
会場を出た私は、裏口に待たせておいた馬車に乗り込んだ。
御者は長年雇っている初老の男性だ。
彼だけは、私の『真の能力』を知っている。
「お嬢様、お早かったですね。パーティはまだ中盤では?」
「ええ、最高の結末になったわ。予定変更よ、屋敷には戻らず、そのまま北の国境へ向かって」
「承知いたしました。……クッションは、いつもの場所に」
「ありがとう、愛してるわ」
馬車が動き出す。
私はすぐに、座席の下から圧縮しておいた愛用品を取り出した。
これぞ我が最高傑作、『人をダメにするクッション・魔改造Ver』。
空気を抜いて収納していたそれに魔力を通すと、ポンッという音と共に、ふわふわの雲のような形状に膨らむ。
「んぅ……」
ドレスの背中の紐を魔法で緩め、クッションに顔を埋める。
中綿の一本一本に『弾力維持』と『温度調整』の魔法を付与した極上の感触が、私を包み込む。
「……終わった」
王妃教育の課題も、明日提出の領地予算案も、もうない。
明日からは誰に気兼ねすることなく、昼まで寝ていられる。
窓の外を流れる王都の景色。
かつては義務感だけで見ていたその街並みが、今はただの背景に過ぎない。
「さようなら、ブラックな職場環境」
私はクッションを抱きしめ、瞼を閉じる。
意識は瞬く間に、幸せな微睡みの底へと落ちていった。
(ああ……平日の昼寝って、どうしてこんなに背徳的で甘美なのかしら……)
馬車は北へ進む。
私が去った後の王都で、とんでもないパニックが起きるとも知らずに。




