5.この期に及んで一目惚れ
デッキに出る。
外は風が強かった。
潮の匂いと一緒に、どこか懐かしい夏の空気が鼻腔を柔らかくくすぐる。
強すぎる陽射しがコンクリートの床を白く照らし、遠くの海面では光がぎらついていた。
展望デッキの手すりに近づくと、ひときわ高く波音が聞こえてくる。
下を覗けば、桟橋の先で係員たちが何やら作業をしていた。
フェリーの到着はまだ先のはずだが、どこか慌ただしい雰囲気だ。
新鮮な空気を目いっぱい浴びていると、昂っていた神経がすっと落ち着いていく感じがした。
「この大海原の先に、俺の貞操の行方はある!!」
なんてわけのわからないことを言いかけて、すぐにかぶりを振る。
やめとこう。柄じゃない。やっぱりまだ神経は昂ったままだ。
「…………?」
ふと、気配を感じて振り向いた。
いつの間にそこにいたのだろう――――デッキの反対側の角で、ひとりの少女が佇んでいたのだ。
風に揺れる、たっぷりとした長い黒髪。
純白のワンピースが風をはらんで、儚げに揺れている。
透き通るような四肢の白さが、まるで日差しに溶け込んでいくようだった。
大きめの麦わら帽子が、彼女の顔に影を落としていて、その表情は見えない。
細く華奢な指が手すりを掴んでいて、それがどこか頼りなげに映った。
――どうしてだろう。
ただそこに立っているだけなのに、視線が、心が、彼女に奪われる。
大海原を背に佇んでいる彼女の姿は、まるで一枚の名画のように映える。
まるでこれまで見てきた全ての美しいものが嘘だったと思えるほどに、その光景は、心底美しかった。
そのとき、一際強い風が吹いた。
彼女の髪が風に踊り、帽子がふわりと宙に舞う。
その拍子に、隠れていた横顔が露になる。
はっとした表情。
不意を突かれて、ぱっちりと見開かれた大きな瞳。
その一瞬の横顔に、俺は余計に見とれてしまう。
「……ぼ、帽子っ!」
か細い声が夏風に溶けた。
気づけば、彼女はこちらへ駆け寄ってきていた。
「とんでっちゃう……!」
少女の指が俺の背後を差す。
振り返ると、麦わら帽子が手すりを越えて、海の彼方へ旅立ちかけていた。
そこでやっと俺は我に返った。
「……っぶねっ!」
咄嗟に身を乗り出す。
ギリギリのところで、間一髪その帽子を空中で掴み取ることに成功した。
「あ、ありがとうございます……!」
少女は安堵の息をつくと、少しだけ顔を上げて、上目遣いにそう感謝してきた。
その目が、妙に印象に残る。
吸い込まれそうなほど澄んでいて、けれどどこか怯えたような影を宿していた。
……ぽすんと彼女に帽子を被せて、さらりと決め台詞のひとつでも言えれば様になったのだろう。
けど、そんな勇気が俺にあるはずもない。
結局、帽子は普通に手渡した。
というよりそもそも、初対面の女の子相手に本気でそんな大胆なことをしでかせるのなら、こんな性愛教育プログラムなんて無縁だっただろうしな。
――と、そこでふとした違和感が脳裏をかすめる。
「……えっと、プログラムの参加者、だよな?」
問いかけると、少女はわずかに肩をすくめ、気恥しそうに目を伏せた。
彼女の耳はほんのりと赤らんでいる。
「……ん、ん」
ややあってから、彼女はこくこくと小さく首を縦に振った。
まあ、このタイミングでこの場所にいる時点で、他に考えようがないけれど――――
「……あ、えと……」
少女は何かを言いかけたようだったが、唇がわずかに動いただけで、結局言葉にはならなかった。
風がやんで、静寂が戻る。
潮の香りと、ほんの微かに甘いような、柔らかな少女の匂いが鼻先をかすめた。
「……あの、ありがとう、ございました」
ぽつりと落ちるような声。
聞き取れたのはそれだけだったけど、それだけで胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
何か返そうとして、けれど結局何も出てこなかった。
代わりに、俺はただ小さく頷いた。
そのとき。
「霧島千鶴さーん、いらっしゃいますかー?」
遠く、展望デッキの出入り口から、誰かの声が響いた。
女性スタッフだろうか、制服姿の人物が手を振っている。
彼女ははっとして、そちらに視線を向ける。
あわてて麦わら帽子をかぶりなおすと、名残惜しそうに俺の方をちらりと振り返った。
「行かなきゃみたい……」
その声には、どこか申し訳なさそうな響きがあった。
「うん、じゃあ」
またな、とか、一緒に頑張ろうな、とか。
いろいろな言葉が浮かんでは消え、結局どれも言えなかった。
彼女は小さく頭を下げて、足早にその場を離れていく。
その姿を、俺はただ黙って見送った。
あの白いワンピースの裾が、ひらひらと揺れながら遠ざかっていくのを。
名前、聞きそびれたな――そう思ったその瞬間、さっきの呼び声が脳裏によみがえる。
霧島、千鶴。
それがどうやら、あの子の名前らしい。
***
しばらくして、俺もデッキをあとにした。
潮風と陽射しに別れを告げて、冷房の効いた元いた待合室に戻る。
少し前までの静けさが嘘のようだった。
待合室―いや、ターミナル全体が、いつの間にかの人で溢れかえっていたのだ。
俺と同い年くらいの若者たちに加えて、運営側らしき大人たちも、そこかしこでひしめきあっている。
気づけばこの場所は、熱気とざわめきが混ざりあった、まるで祭りのような雰囲気に包まれていた。
時計を見ると、フェリーの到着まではもうあとわずか。
席を外していたあいだに、空いていた席はすっかり埋まっていた。
仕方なく、俺は人気の少ない隅っこの壁に背を預けて、時が過ぎるのをじっと待つことに決める。
「……………」
冷静では、いられなかった。
気分転換に外に出たはずが、今の俺の胸の中は、外に出る前の何十倍も騒がしかった。
さっき出会った、あの女の子――霧島千鶴。
たった今名前を知ったばかりの彼女の顔も声も匂いも、その全てが俺の深いところにまとわりついて離れてはくれなかった。
たった一言二言、言葉を交わしただけ。
それだけのはずなのに、どうしようもなく彼女に惹かれている俺がいた。
……だが。
同時に思い至る。
あの子も、このプログラムの参加者なのだと。
その意味を思った瞬間、俺の全身を薄ら寒いものが走った。
彼女にも、導き手が配属されるのだ。
自分以外の男に、霧島千鶴が手ほどきされるという未来。
想像してしまう。
彼女が、俺以外の男に触れられている姿を。
誰かの腕の中で頬を紅潮させ、肩で荒く息をしながら、白い肌を露わにさせている光景を。
「……なに考えてんだよ。馬鹿か、俺」
思わず、ひとりごちる。
嫌悪なのか、嫉妬なのか、焦りなのか。
自分でもよくわからない。
ただただ、胸の奥がざらついて仕方がなかった。
辺りに視線を泳がせる。
無意識に――いや、意識的に、俺は彼女を探していた。
「……あ」
見つけた。
ロビーの隅、窓際にある長椅子の端っこに、彼女はちょこんと腰かけていた。
両腕で麦わら帽子を抱きしめるようにして、その小さな肩を縮こまらせている。
伏し目がちなその瞳は、不安と戸惑いと、そして微かな興奮をにじませていた。
……その仕草すら、どうしようもなく、俺の胸を締めつけた。
俺はもう彼女が愛おしくて、仕方がなくなっていたのだ。
***
この夏、国が俺の初めてを奪う。
そんなタイミングで――――俺は生まれて初めて、一目惚れしたのだった。
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