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94 空材の帰還

 物を干すという行為は、生活の中でもっとも地味で、しかし深遠な工程である。洗った服を干し、切った肉を干し、そして今、俺は草を干している。


 ただし、この草は普通ではない。浮島から持ち帰った、風をはらむように膨らむ苔である。葉の形は羽のように裂け、光を反射するときに一瞬だけ虹色が走る。最初に見たとき、「これは地面か?」と疑ったやつが、今はまな板の上に並べて風にさらしているのだから、人間の適応力とは恐ろしい。


 「……あ」


 不意に、草のひとつが風に巻き上げられて空中に浮いた。


 「おい、逃げたぞ」


 「逃げたってなに?」


 セリアが振り返りながら答える。彼女は今、羽根苔を束ねて小さなマット状に加工していたのだが、その素材の軽さに苛立ち始めている。


 「風に乗って飛んだ。ってことは、これ……浮くんじゃないか?」


 「浮く、の定義によるけど。飛ぶ、とは違うでしょ」


 「じゃあ、浮きっぱなしなら?」


 「……そしたら、それはもう浮いてる」


 我々は、浮く草を手に入れてしまった。


 浮島の地面にびっしりと生えていた苔──羽根苔。見た目は地味だが、乾燥させると風を包み込み、一定の条件下では重力をほとんど感じさせない。もちろん、何もかもが浮くわけではないし、風の向きや魔素の濃度にも左右される。だが、確かにそれは“地に縛られない素材”だった。


 「……じゃあ、試してみる?」


 セリアがそう言って、次の素材を取り出した。浮胞草だ。これもまた、浮島で見つけた奇妙な生き物のような草。根がなく、空中を漂い、風に合わせて形を変える。その繊維を乾燥させて編み込むと、しなるのに裂けず、裂けないのに軽い。つまり、訳がわからない。


 「袋にしてみよう」


 セリアが羽根苔と浮胞草を組み合わせて縫い、四角い袋を作った。風を含ませて天井から吊るすと、袋はまるで膨らんだクラゲのようにふわふわと揺れた。


 「これ……浮いてるよな」


 「うん。でも耐荷重はない。乗ったら落ちる」


 「……じゃあ、乗らなきゃいいな」


 我々はその素材の軽さに惚れ込みつつ、用途を模索し始めた。


 そのとき、ルナが蔓に巻かれて叫んだ。


 「助けてー! 捕まったー!」


 風を操る蔓。これもまた浮島産の素材で、触れると吸いつくように絡みつき、力を入れると締め上げてくる。そして、湿度によって伸縮し、魔素に反応して形状を変える。今、ルナはそれに腕ごと足ごと包まれ、ぶら下がっていた。


 「……すごい。吊るせるぞ、これ」


 「吊るされてる本人の感想は!?」


 「悪くないです! ちょっと空中感ある!」


 俺たちはこの騒ぎの中で、ひとつの可能性に気づいた。


 “浮く素材”と“吊るす蔓”の組み合わせ。それは、家を軽くするだけでなく、風を通し、熱を逃がし、しかも「浮かせる」ことができる建築の基礎になり得た。


 「いっそ、建物ごと浮かせてみる?」


 「バカじゃないの?」


 「でもさ、ちょっと浮くだけでも、湿気避けとか虫避けになるし、床が冷たくないんだぞ?」


 セリアは「やれやれ」という顔をしつつも、すでに設計図を描き始めていた。彼女の頭の中では、建物の構造、空気の流れ、魔素の動きが複雑に絡み合って踊っているのだろう。


 エリスがそっと声をかけた。


 「風の流れ、視える?」


 彼女は空気中の魔素を感じ取ることができる。エルフならではの特性だ。エリスは指をすっと動かして、俺たちのまわりに風の軌跡を描いた。


 「風はここから入って、ここで渦を巻く。素材の形をこの流れに合わせれば、風が熱を奪って外へ出る」


 「つまり……風冷倉庫が作れる」


 素材が軽く、風を逃がす構造を持つなら、それを倉庫にすれば自然冷却が可能になる。火も魔法も使わずに、ただ空気と素材の力で、食料を保存できる。


 「それ、やってみよう」


 俺たちは羽根苔を壁に貼り、浮胞草で天井を覆い、蔓で梁を組んだ。仕上がったのは、ほとんど“呼吸する倉庫”だった。


 完成して中に入ると、音が吸い込まれ、熱が逃げ、光が柔らかく反射する。


 「……これは家になるな」


 「うん。でも、まずは倉庫」


 そして俺たちは、最初の風冷倉庫に名もつけず、ただ“それ”と呼んだ。


 文明が、音を立てずに進みはじめた。

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