93 浮島への初上陸
浮島に降りるということは、正確には“昇る”のではないかという疑念を抱きつつも、俺はその地に足を下ろした。いや、足を下ろしたという表現が正しいのかどうかも怪しい。なにせ、その瞬間、地面はわずかに沈み、空気がくぐもった音を立てて逃げたのだ。
「……ここは、地面なのか?」
思わず漏れた問いに誰も答えなかったが、それも当然だ。誰ひとりとして、この場に確信を持って立っている者はいないのだから。風は足元から吹いていた。地面に見える一面の苔のようなものは、時折、風に合わせて脈打つように動いていた。
俺はふと、「人間は、どこまでを“自然”と呼ぶのだろう」と思った。地上では当たり前に感じていた感覚が、ここでは一つひとつ問い直される。風が下から吹くのも、草が呼吸するのも、光が濃淡を持って動くのも──すべてが、見慣れないのに、妙にしっくりきた。
レイヴィアはその苔にしゃがみこみ、真剣な顔で匂いを嗅いでいた。魔素変換で足を得た元・人魚の彼女は、こういう未知との出会いに対してやたら積極的である。
「甘い匂いがします。……お菓子の草、だったらいいのに」
「食べるなよ。まだ何も保証されてないぞ」
「匂いを嗅いだだけですー」
その返事が、まるで「味見はしたけど飲み込んではいません」という子供の言い訳のように聞こえたのは俺の被害妄想だろうか。
セリアはと言えば、すでに地面にひざをつき、草の間に指を入れていた。彼女は魔素研究者であり、同時に最も現実的な目を持つ人間の一人だ。だがその冷静さが、時として逆に“恐れ”という感情を消してしまうらしく、こういう状況ではまったく役に立たない。
「この植物、根が浅いけど倒れない……浮力を使ってるのか、地面の素材が密に絡んでるのか……風と一緒に動いてるのよ。これ、たぶん、地面じゃなくて……層よ」
「層?」
「浮いてる板の束の上に、草が貼りついてる構造。浮力の層、風の層、魔素の層。そうやって成り立ってる土地。だから──」
彼女は立ち上がり、足元を指した。
「ここに“根付く”には、違うやり方がいる。たぶん、地上とは逆の考え方が必要になる」
俺は無言で頷いた。よくわからなかったが、つまり俺たちは“上下が逆”の土地に来てしまったのだ。地面に立っていても、どこか浮いている。足元に広がる苔は、支えているのではなく、共に“浮かんでいる”のだ。
目を凝らすと、風の中に、半透明の生き物のようなものが混じっていた。草に似た葉を持ち、風を追いかけるように跳ねている。音はない。どの動きも、風と同期している。
そして、すべてが──静かだった。
音がないというより、余計な音が“出てこない”構造になっているようだった。何かが跳ねても、水が揺れても、風が通っても、耳に届くのはごくごく小さな気配だけだ。
「……ここの音、どこに行ったんだろうな」
俺がぽつりとつぶやくと、レイヴィアが小さく笑った。
「音がないと、人の心が聴こえてきますよ」
その言葉が、ふいにこの島の全てを言い当てているような気がして、俺は口を閉じた。
浮いているのに落ち着く。知らないのに懐かしい。怖いはずなのに安心する。
この島は、そういう矛盾で編まれている。
セリアは風の流れを追い、レイヴィアは花を撫でていた。俺はただ、風の中に立っていた。
ここは、街になるかもしれない。あるいは、街になるべきではないのかもしれない。
だが確かに、俺たちはここに降り立った。
その事実だけが、すでに、何かを始めていた。




