92 空に浮かぶ影
人間というものは、平穏無事な日常を求めて生きているように見せかけておいて、実のところ内心では「今日こそは何かが起きるに違いない」と期待しているフシがある。いや、むしろ期待を通り越して、ほとんど祈りに近い。パンを焼きながら「雷でも落ちてくれんかな」とか、味噌を撹拌しながら「いきなり隕石が降ってきたりしてな」とか、そういうことを無意識に思っている。
そして、そんな祈りが通じてしまった朝──俺は空に島を見た。
「……浮いてるな」
「ええ、確実に浮いてるわね」と隣でセリアが言った。だがその声はやや上擦っていて、彼女の両手は飛行魔獣の背中の鱗にがっちりとしがみついていた。視線が地面に釘付けで、青ざめた顔色が微妙に“空の色”と一致していた。
「空って、思ってたより無音なんだな……」
「無音だから怖いのよ!」
「なるほどなぁ」
風が、耳元をすり抜ける。俺たちは今、セリア、レイヴィア、そして俺の三人で、飛行魔獣の背中に乗っている。巨大な翼が滑空するたびに、身体がふわりと浮き、内臓が一歩遅れてついてくる。
「空にも国があるのでしょうか? 私、行ってみたいです!」
レイヴィアがきらきらした目で空を見上げながら言った。そしてこの飛行魔獣、初乗りにもかかわらず、一切の不安を見せないどころか風を浴びてご満悦である。
「お前、空も行くのかよ。ついこの間、陸に上がって“歩くの楽しいですぅ”とか言ってたばっかりじゃないか」
「世界は広いのです!」
──この調子でいくと、いずれ地中や次元の狭間にも行きかねない。
俺は目を凝らす。空の遥か先、雲の向こうに、確かに“それ”はあった。空にぽっかり浮かぶ、大地のような影。輪郭はあいまいだが、ところどころ緑が茂っているのが見える。
「なあ、あれは“島”って呼んでいいんだよな?」
「島でしょ。地面があり、植物があり、そして浮いている。浮いているけど、確かに“島”」
「浮いてる時点で“島”の定義が揺らいでるけどな……」
まさに、“空の忘れ物”といった風情だった。誰かが地上に置き忘れたものが、ふわふわと風に乗って天へ昇り、そのまま帰ってこられなくなったような、どこか切ない存在感。
だが、俺の心は高鳴っていた。
なぜなら、それは発見であり、未開であり、そして──文明であったからだ。
「よし、命名しよう」
「また始まった……」
「“ソラダチ”だ。空の大地、略してソラダチ。どうだ、語感が良いだろう?」
「絶妙にダサいわ」
「だが、覚えやすい」
命名というのは、文明の第一歩である。名前を与えることで、我々は対象を“知ったつもり”になり、安心してそれを見つめることができる。俺はそう信じている。
「……でもどうやって浮いているんだ?」
セリアがようやく顔を上げた。風に髪が舞い、目元に真剣な光が宿る。
「魔素の密度、風の流れ、気圧の逆転層、重力無視構造体……理屈では説明できそうだけど、実物を前にすると全部意味をなさない」
「つまり、わからん、ということだな」
「そう。けど、わからないものを前にすると、私は安心するの。ああ、まだこの世界には“謎”があるんだって」
それを聞いて、俺はにやりと笑った。
「俺もだ。だから、行くぞ。ソラダチに」
「即決!」
「行ってみなくちゃわからないことばかりなんだよ、こういうのは。行って、見て、触って、そして“なるほどわからん”って言って初めて、世界と握手できるんだ」
レイヴィアが嬉しそうに手を挙げた。
「私も握手したいです!」
「よし、じゃあ三人で握手しよう」
飛行魔獣が、ゆっくりと高度を上げる。雲が真横を流れ、空気が湿り気を帯びてくる。目の前には、未知が待っている。
未知とは、いつも風に乗ってやってくる。
そして俺は──その風に、目一杯翻弄されながら、確かに笑っていた。




