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90 飛行魔獣の使役訓練

 空を飛ぶなどという行為は、昔から選ばれし者だけに許された特権であった。翼を持つ鳥、羽ばたく天使、そして、ちょっと頭のねじが外れた発明家。それにまさか自分が並ぶとは夢にも思わなかった。が、気づけば俺は今日も広場で、飛行魔獣に向かって深々と礼をしている。


 そう、あの巨大な影である。


 夜毎村の上を悠々と舞うその影は、畏怖と憧れを一身に背負っていた。羽ばたき一つで風を巻き起こし、月光を裂き、ランタンの魔素結晶をガクブル震わせる謎の存在。その正体は未だ不明。だが、俺は思ったのだ。


 「このでっかいのに荷物を運ばせたら便利じゃないか?」


 この発言に、セリアは目を丸くし、リュナはケタケタと笑い、そしてエリスはと言えば、例によって静かに頷いた。


 「理論上、不可能ではないわ」


 その一言が、俺の人生をまた一つ転がした。


 というわけで俺は、空を使役する訓練を開始することになった。これを笑う者は多かろう。だが、人はいつだって「なんか面白そう」の衝動で文明を発展させてきたのだ。つまりこれは、俺という文明による飛行魔獣産業革命のはじまりである。


 まず我々は、飛行魔獣と接触する方法を考えた。普通の呼びかけでは無理だ。口笛を吹いてもやってこないし、旗を振ったら風で吹き飛ばされた。


 そこで俺は考えた。「魔素で会話すればいいのではないか?」と。


 エリスによると、魔素は感情や意思を伝達する媒体として機能する可能性があるという。つまり、我々が込めた“友好”や“安全”や“すこしだけ重い荷物を運んでください”という欲望を、魔素に変換して送りつければ、もしかして通じるのではないか。


 かくして誕生したのが、“魔素共鳴装置・弐号改ヤカン”である。どう見てもただのヤカンだが、中には特殊な魔素結晶とエリス特製の精霊導管が仕込まれている。俺が命名したのは“ヤカン”の部分だけである。


 「これを空に向かって、煮立てます」


 「お湯入れたのか?」


 「雰囲気だよ」


 というやりとりのあと、俺たちは村の塔のてっぺんに登り、いざ魔素信号の発信を開始した。


 結果から言おう。来た。


 音もなく、風を裂いて現れたその影は、俺の想像より二割ほど巨大で、六割ほど気高く、そして十割増しで、近い。魔素結晶がビリビリと震え、セリアが「やっぱ帰ろう」と言い出したところで、俺は思わず立ち上がってしまった。


 「やあ、ようこそ」


 なぜ俺があんなにも丁寧に挨拶をしたのか、自分でもわからない。だが、飛行魔獣は一瞬だけこちらを見た。正確には、俺がそう感じた気がした。


 風が止まり、魔素が揺れ、空気がぬるりと変わる。


 そのとき、何かが俺の足元に落ちた。


 羽根だった。


 青白く光る、長く、そしてしっとりと湿った感触を持つ羽根。まるで「とりあえずこれでも受け取っとけ」と言わんばかりの投げやりなプレゼントである。


 エリスがそれを拾い上げ、眉をひそめた。


 「……たぶん、悪くない反応よ」


 俺は大きくうなずいた。これは、契約書のサインのようなものだ。いやたぶん違うが、そう信じるしかなかった。


 ここからが本番である。


 俺たちは羽根の魔素を分析し、飛行魔獣の魔素感受性を測定し、風に乗せるべき魔素の波長を調整し――ここまで全部エリス任せである。だが、俺は彼女のとなりで大きく頷き、時には「ふむ」とか「なるほど」とか言っていた。大事なのは、信頼感とリーダー感である。


 そしてついに、俺は立ち上がった。


 「やるぞ、空の物流革命だ!」


 「待って、まだ乗る準備が」


 「いざ参る!」


 気づけば俺は塔の先端に立ち、飛行魔獣の背中に飛び乗っていた。


 意外と柔らかかった。


 風が鳴る。空が開く。重力が沈む。


 俺の視界から、村が遠ざかっていく。木々が、畑が、屋根が、豆粒になっていく。空の背に乗るというのは、つまり、現実を一時的に辞職するようなものだ。


 飛行魔獣は何も言わない。だが、その背は俺を拒まなかった。


 このとき俺は確信した。


 「これは……いける」


 空輸は、可能だ。


 俺は風の中でそう呟いた。空が笑ったような気がした。いや、たぶん風で俺の口角が上がっただけだ。

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