89 酒造りの始まり
この街に酒がない、という事実に俺が気づいたのは、夕食後、米を三杯も食べたにもかかわらず、どうにも胃袋の奥に“つっかえたなにか”を感じたからである。
炊きたての白米はうまい。神。
パンも悪くない。革命。
だが、俺は思った。
「これらをもってしても、心のスキマ風は防げぬ」
要するに、“酔い”が足りぬのだ。
人生に必要なのは、炭水化物と発酵と、ほんの少しの逃避である。
炊いた米に熱い湯を注ぐように、世界をふやかして味わう知恵が、我々にはまだない。
というわけで、俺は酒を造ることにした。
こういうと決意めいて聞こえるが、実際は夜な夜な広場で「酒が飲みたい酒が飲みたい」とうわごとのように繰り返していたところをセリアに見咎められ、
「だったら作れば?」と斜め上から斬られ、
「それもそうだな」と自分でも訳がわからない納得をしてしまった、というのが実情である。
翌朝、俺は“発酵研究所”と書かれた札を物置にくくりつけ、そこに蒸し米と果実と、異世界のよく分からん胞子を投入した。すでにこの時点で、だいぶ酔っていた気がする。
発酵とは、文明が見出した“微生物による祝福”である。
俺は神を信じないが、酵母は信じる。
なぜなら、こいつらは黙って酒を造ってくれるからだ。
俺はふよふよ菌に語りかけた。
「頼むぞ、今日だけは真面目に働いてくれ」
ふよふよ菌は何も言わなかった。だが、泡をひとつだけぽこりと浮かべた。それが肯定だったのか、否定だったのかはわからない。とにかく俺は、魔素で温度を調整し、瓶を布で包み、ひたすら“ぽこぽこ音”を待ち続けた。
数日後、樽の蓋を開けたとき、香りが俺を撃った。
米の甘みと果実の酸味と、かすかに世界がたゆむような香気。
その瞬間、俺の脳裏に浮かんだ言葉はひとつ。
「これは……飲める!」
そうして我々は、飲んだ。
エリスは眉をひそめ、「魔素導通が妙に高いわね」と言い、
医者は「記憶の代謝を加速させるな」とか言っていたが、杯は離さなかった。
リュナは一口で床に沈み、
レイヴィアは「これは……陸の波ですね」と微笑んだ。
翌日、俺たちはひとつの建物を“酒場”に改装した。
名を『夢の底』としたのは、誰の発案でもない。
気づけば、入口の看板にそう書かれていた。魔素かもしれない。
酒場は、街の“影”を吸い込んだ。
炊いた米の匂いの奥に、もう一段階深い香りが生まれた。
人々は、静かに酔い、語り、泣き、笑い、告白し、そして翌朝、何も覚えていなかった。
これは都市の証である。
街に酒ができた。それは、誰もが少しずつ、“平気なふり”をやめたということだった。
パンの香ばしさも、米のやさしさも、この酒には敵わなかった。
なぜなら――
これは、孤独に効く味だったからだ。
俺は最後の一杯を盃に注ぎ、空に掲げた。
夜空は、まるで俺の酒気に酔ったかのように、ゆるやかに滲んでいた。




