表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

88/137

88 パン職人の来訪

 パンというものに、俺は複雑な感情を抱いている。


 それは尊敬と侮蔑、郷愁と猜疑心のないまぜになったものであり、炊きたての白米を正義と信じて育った身からすれば、パンはどうにも西洋のスノッブさを身にまといすぎている。


 小麦と発酵とバターの香りが交錯し、食卓に文明の香りを持ち込む。そう、まるで自分が“文化人”ででもあるかのように錯覚させる。あれは恐ろしい主食だ。すました顔してうまいのが、実に許しがたい。


 だからこそ、異世界においてパンが存在しないことに、俺は密かに安堵していたのである。


 だが、そういう安心は、えてしてあっさり裏切られる。


 彼はある日、波と共に現れた。街の浜辺に漂着した小舟の上、焼き石と木の桶と、なぜか完璧にこねられた生地を携えて。


 男は名乗った。「パン職人です」と。


 その姿は日焼けした修道士のようであり、沈黙とともにパンを焼くその様は、もはや“主食の錬金術師”であった。


 「君は、なぜパンを焼くんだ」と俺が尋ねると、彼は黙って発酵中の生地を指差した。


 見ると、生地がぷるぷると震え、まるで微生物の祭りでも催されているかのようだった。異世界の魔素が介入しているのか、酵母が元気すぎて音を立てている。


 「……それ、今にも歩き出しそうだが?」


 「パンとは、命の縁だ」


 何を言ってるのかまったくわからなかったが、俺は思った――危険だ、と。


 だが、街は騒いだ。漂流者にして職人、しかも発酵と焼成に魔素を組み込む技巧派。しかも見た目が妙にカッコいい。どう考えても、俺の“米”と張り合う気まんまんである。


 「パン屋ができるって、ほんと?」


 「朝ごはんが……選べる……?」


 「うちの子、炊いたごはん噛まずに飲んでるのよ。パンなら……」


 雑音が俺の脳内を埋め尽くす。誰だ、異世界に“朝食の格差”を持ち込んだのは。


 しかし、文明は止まらない。


 翌日には、小屋の一角に「ぱん(ひらがな)」と書かれた布看板が掲げられ、魔素発酵炉が設置され、謎の“浮遊するパンくず”が街を舞っていた。


 初回の焼成。俺はこっそり、木の陰から覗いていた。


 ぷしゅう、という音とともに扉が開き、湯気が立ち上る。中から姿を現したのは――黄金色の、しっとりとした、外側はこんがり、内側はふかふか、焦げ目が理想的に走った、恐ろしくうまそうな――


 「……パンじゃないか」


 思わず言葉が漏れた。


 それは、完璧なパンだった。異世界で育った謎麦と、魔素水と、謎菌によって作られた発酵生命体。それらが出会い、火と空気と哲学によって焼かれた結果が、目の前にあった。


 「これは……朝だな」と俺は言った。


 「昼にもなります」とセリアが通りすがりにパンを奪っていった。


 「夜食にもなる」とリュナがジャムをつけて走っていった。


 「そして我々は……太る」と医者が神妙な顔で警告したが、口には二枚挟まっていた。


 気がつけば、街中がパンの香りに包まれていた。あちこちでトーストされ、挟まれ、ちぎられ、投げられ、食われていた。


 そして俺は気づいたのだ。

 パンとは、文化のカタチである。


 やわらかく、香ばしく、人々を導く匂いを持ち、かつてこの世界になかった時間――“ブランチ”や“おやつ”を発生させる、魔の主食。


 レイヴィアがパン片を手に言った。


 「これが……文明の香り。まるで陸が奏でる音楽のよう」


 俺はもはや何も言えなかった。


 米は重厚で慎ましく、土の中で力強く育つ。パンは気まぐれで華やかで、空気と恋をする。


 どちらが上かなど、もうどうでもよくなっていた。


 この街には、今、両方ある。

 それでいい。いや、それがいいのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ