63 飛行魔獣の痕跡
この異世界の空気には、時折妙な違和感が漂うことがある。
風が吹いているのに葉が揺れないとか、誰も歩いていないのに足音が響くとか。そういう「ほんのわずかに現実が歪んだような瞬間」が、まるで何かの前触れのように現れるのだ。
そして、今日もまた、その違和感が俺たちを誘っていた。
「やっぱり、調査に行くんだな」
リュナが腕を組み、俺をじろりと睨む。
「当たり前だ。あんな巨大な飛行魔獣がうろついてるんだ。正体を探らないわけにはいかない」
俺は昨夜の出来事を思い出す。
村の上空を悠然と旋回する巨大な影。魔素結晶の共鳴。そして、突如として姿を消した謎の存在。
俺たちはそれが何者なのかを知るため、足を踏み出した。
「本当に慎重に行きましょうね」
エリスが静かに言った。
エルフという種族の特性なのか、彼女はこの異世界の「気配」に非常に敏感だった。彼女が不安そうにしているということは、何かがすでに俺たちを見ている可能性があるということだ。
山へ向かう道は、やけに静かだった。
鳥の鳴き声がしない。風の音すらしない。森全体が沈黙しているようだった。
「……気持ち悪いな」
リュナがぽつりと呟く。
俺も同感だった。
これは異世界における「捕食者の法則」のひとつだ。生態系の頂点に立つものが現れると、周囲の生物たちは本能的に息を潜める。森が沈黙しているのは、つまりここがすでに狩場であるという証拠だった。
俺たちは慎重に進んだ。
やがて、木々の間から違和感のある景色が見えてきた。
「……焼けてる」
リュナが呟いた。
目の前の木々は、黒く焦げていた。だが、奇妙なことに、焼け跡から煙は上がっていない。火が消えた直後なら、炭化した木の香りが残るはずだ。しかし、この森には焦げたはずの匂いがない。
「おかしいわ……」
エリスがそっと焼け跡に手を当てた。
「普通の炎じゃない……何かが違う」
「何かって?」
「魔素の……残滓がある。でも、これは自然発生した魔法の痕跡じゃない」
俺は息をのんだ。
つまり、これは魔獣が意図的に残した痕跡だということか?
「この森の生態系が変質してる……」
エリスの声は低かった。
「変質?」
「うん……普通、焼け跡があったら、その周囲には虫や菌類が繁殖して、次第に分解されるはず。でも、ここは違う。炎に焼かれたのに、まるで時間が止まったみたいに、何の変化も起きていない」
俺はあたりを見回した。確かに、焼け跡の木々は炭化したままで、その表面には苔も生えていなければ、虫もいない。まるでここだけ「死」が固定されたような異様な光景だった。
「……魔素が影響してるのか?」
俺の問いに、エリスは考え込むように木を見つめる。
「おそらく……この焼け跡は、魔素を吸い取られているのよ」
「吸い取られてる?」
「普通、火で焼かれた木でも、しばらくすれば土へ還るけど、ここは魔素が消えてるから、何も育たない。つまり、魔獣がここを通ったことで、魔素の循環が断たれたのかもしれない」
リュナが険しい表情で森を見回した。
「つまり、あの魔獣は"燃やす"んじゃなくて"奪う"ってこと?」
エリスはゆっくりとうなずいた。
「魔素を奪うことで、結果的に周囲が燃える……そんな力があるのかもしれない」
俺たちは無言で顔を見合わせた。
やがて、地面に深くえぐられた跡が現れた。
「……爪痕?」
リュナが膝をついて確認する。
「でかいな……」
俺の手を広げても足りないほどの大きな爪痕が、岩肌に深々と刻まれていた。まるでそこに何か巨大なものが降り立ち、力強く踏みしめたかのような跡だった。
「飛ぶだけじゃなく、陸に降りるのね」
エリスが静かに言った。
「この大きさ……一撃でも食らったら即死ね」
リュナの言葉に、俺たちは無言で頷いた。
しかし、俺たちがこの場所で手に入れたのは、それ以上の確かな情報ではなかった。
焼け跡、異様な沈黙、巨大な爪痕。
それらが示すものは、何か恐ろしい生態を持つ存在の痕跡に違いない。だが、今の俺たちには、その生物が何者なのか、どこへ向かったのか、まるで分からないままだった。
リュナがぽつりと呟いた。
「……わからないことが多すぎる」
「そうね。でも、無理に進んでも得られるものは少ないわ」
エリスの声には、静かな諦めが混じっていた。
俺は、しばらく地面に刻まれた爪痕を見つめた後、ゆっくりと踵を返す。
「帰るか」




