62 飛行魔獣の影
その影は、突如として村の上空を横切った。
「……おい」
俺は思わず呟き、空を見上げる。
青白い魔素結晶の光がぼんやりと夜闇を照らし、その中で、異様に巨大な翼が静かに揺らめいていた。
何かがいる。
ただの鳥ではない。
そいつは悠然と空を舞い、村の上を旋回していた。影の大きさからして、並の猛禽類ではないことは明らかだった。少なくとも、馬一頭を軽々と攫えるほどのサイズはある。
「……あれ、なんかやばくない?」
リュナが低く唸る。
「いや、間違いなくやばい」
俺は即座に同意した。
飛行する生物というのは、陸上生物とは根本的に異なる生態系を持つ。筋肉や骨格の構造、飛翔するためのエネルギー源、獲物の捕食方法、それらすべてが異世界の論理に則っているはずだ。そして、今ここにいるのはただの鳥ではない。魔素に共鳴する何かだ。
その証拠に──
「ら、ランタンが……震えてる……」
震える声が聞こえた。
俺は反射的にそちらを見やる。
セリアが、ぎこちない動きで手に持った魔素結晶ランタンを覗き込んでいた。
魔素結晶が、一斉に共鳴を始めている。
じわじわと光が明滅し、まるで何かを訴えるかのように低い振動を放っている。まるで、上空の影と何かしらの見えない糸で繋がれているかのように。
「魔素が……吸い取られてる?」
セリアの声が、わずかに上ずる。
俺はすぐに魔素結晶を手に取り、観察する。結晶の表面が妙にざらついていた。魔素が乱れ、外部に引き寄せられている証拠だ。
「こいつは……ただの魔獣じゃないな」
魔素に干渉する能力を持つ生物。そんなものが存在するとは思わなかった。いや、異世界ならば当然か。
「……っ!」
隣で、セリアが短く息を呑んだ。
彼女は先ほどから、俺と目が合うたびに微妙に視線を逸らしている。まるで、俺とまともに向き合うのを躊躇っているかのように。
──なるほど、そういうことか。
俺は悟った。
彼女は例の事件以来、俺に対して妙にぎこちなくなっていたのだ。
魔素の暴走、霧散する服、取り乱すセリア、呆然とする俺。あの事故が彼女の記憶に色濃く残っているのは間違いない。
たしかに、あれは不運だった。いや、もはや不運の極致だった。
だが、今この場においては、彼女の羞恥よりも村の上空を飛ぶ謎の魔獣のほうがよほど差し迫った問題なのだ。
「……あれ、消えた?」
リュナが呟いた。
俺は慌てて空を見上げる。
影がない。
先ほどまで村の上を旋回していたそれは、まるで幻のように掻き消えていた。音もなく、風すらも残さずに。
「そんな……あんなに大きかったのに」
セリアが信じられないという顔をする。
だが、俺には確信があった。
──あれは、どこかへ飛び去ったのではない。魔素の流れに沿って消えたのだ。
「……この村が、たまたまそいつの通り道になってたってことか?」
リュナが慎重に言葉を選ぶように言う。
「それか、あるいは……俺たちが何かを"呼び寄せた"のかもしれない」
俺は手元の魔素結晶を見つめる。
魔素はこの世界の根幹を成す力であり、それを利用することで俺たちは文明を築こうとしている。だが、それは本来この世界に存在しない影響を生み出している可能性もあるのではないか?
「……調査が必要だな」
俺はそう呟いた。
今後もあの魔獣が現れる可能性がある以上、正体を突き止めなければならない。
「あいつが敵か味方か、それが問題ね」
リュナが鋭い目をして言う。
「どっちにしろ、わたしたちの村にとって脅威になるかもしれないわ」
セリアも真剣な顔で頷く。
ただし、俺と目が合った瞬間、彼女は一瞬たじろぎ、頬を染めた。
……いや、だからなんだその反応は。
俺は心の中で深く溜息をつく。
──あの事件以来、セリアは俺の前で常に微妙にぎこちなくなった。
「な、なんで私を見るの……?」
「いや、別に……」
「……っ」
彼女は顔を赤くしながら、そっぽを向く。
いや、だから、何なんだその態度は!?
こんな状況で照れられると、逆にどう対応すればいいのか分からない。
俺は静かに夜空を見つめた。
──この空のどこかに、あの影が潜んでいる。
俺たちはそれを"理解できる側"に立っているのか?
それとも、知らぬ間に、何か取り返しのつかないものを呼び寄せてしまったのか?
すべての答えは、まだ夜の中に沈んでいた。




