45 海岸へ
異世界において、海というものは、いわば大いなる無駄遣いである。
広大な水域、果てしない波の動き、どこまでも続く青。人間が歩くこともままならず、建築することもできず、作物すら育たない。あまりに広大な割に、活用の余地がほとんどないというのは、異世界においてもなお、どうにも解せない話である。海があるならば、そこに街道を敷くべきだし、畑を広げるべきではないか。だが、そんな理想論はともかくとして、俺たちは今、まさにその無駄な広がりの前に立っていた。
「……これは、しばらく何も食べていないときに見ると、飲み込みたくなりそうね」
獣人少女リュナが腕を組み、じっと海を睨みつける。
「お前は常に肉のことを考えているのか?」
「それが何か問題?」
「いや……なんというか、もうちょっと感動とかないのか?」
「別に? ただの水でしょ?」
──困ったものだ。
しかし、海に対する感想というのは、女によって極端に分かれるらしい。
「……うーん、何かいる気がするのよね」
エルフのエリスはそう呟き、額に手をかざして海の向こうを見つめる。エルフという種族は、総じて不思議な第六感を持っているらしく、こういう場面では妙に勘が鋭い。実際、彼女の直感は今まで外れたことがない。
「何か、とは?」
「わからない。でも、海は『満ちている』感じがするわ。水だけじゃなくて、もっと別の何かで」
「それが魚だったらいいんだがな……」
「それだったらルナがすぐ見つけるよ!」
六本足ウサギ(仮)から進化した獣人少女・ルナが胸を張る。
「私、嗅覚には自信あるし!」
「いや、お前の嗅覚は陸地仕様だからな……魚は匂わないだろ」
「うーん、じゃあ水をなめてみよう!」
「やめろ。しょっぱいぞ」
「えー!」
俺が止めなければ、このウサギは本当に飲みかねない。そして間違いなく「うえぇぇぇ!」と転がる未来が見える。だが、そんな俺たちのやり取りをよそに、魔素暴走系魔法使いセリアは海水を小瓶に詰め、じっと観察していた。
「……魔素の流れが変ね」
「お前、さっきからそればっかり言ってるな」
「だって、本当に変なんだもの。普通、魔素というのは水に溶け込むと薄まるの。でも、この海の魔素は『何か』に引き寄せられている」
「何か……」
俺は海岸にしゃがみ込み、砂を掬った。さらさらと指の間を流れ落ちる白い砂。その感触は普通だった。海水をひとすくいしてみても、やはり普通。だが、俺はふと気づく。
「……魚がいないな」
「そうなのよ」
セリアが頷く。
「ここまで魔素が満ちているのに、魚の気配がないのは異常。普通だったら、魔素を吸収した巨大魚がいてもおかしくないのに」
「つまり、何かがいるから、魚がいないってことか?」
「その可能性はあるわね」
俺たちはしばし沈黙する。風が吹き、波が引き、再び満ちる。言葉を交わさずとも、皆が「この海は普通じゃない」と感じていた。
──そして、そのときだった。
エリスが唐突に立ち上がった。
「……何か、来る」
俺たちは一斉に振り向いた。
波間から、何かが浮かび上がってきた。
それは、人の姿をしていた。
いや、正確には「人の上半身を持つ何か」。
長い青い髪が水の中でたゆたうように揺れ、白く滑らかな肌が陽光を反射している。そして、俺たちと目が合うと、ゆっくりと口を開いた。
「──あなたたち……陸の者?」
澄んだ声だった。
俺は驚きのあまり、言葉を失った。
まさか、ここで人魚に遭遇するとは。




