27 獣人の少女
温泉というものは、人生のすべてを解決する。少なくとも、そう信じたくなる瞬間がある。
俺は異世界に飛ばされて以来、死に物狂いで生き延びてきた。肉を狩り、水を求め、寒さに震え、未知の動植物と命のやり取りを繰り返してきた。そして、ついに俺はここに辿り着いた。楽園のごとき湯の源泉。これは、ただの湯ではない。俺の功績の結晶であり、文明の象徴であり、すなわち勝利の証 である。
それなのに、である。
その勝利の余韻をたっぷり味わおうという矢先に、なんと、妙な女が倒れていた。
銀色の髪、琥珀色の瞳。獣の耳と尻尾を持つ少女。
これが普通の世界なら、「おお、なんと美しい女性なのだろう」とか「お助けしなければ!」とか、殊勝なことを考えるのかもしれない。しかし、俺は知っている。この手の出会いに、碌なことはない。
そもそも女性というものは、たいてい俺のような男を手玉に取るための謀略 を日々考えている生き物である。そして、それが異世界の獣人少女ともなれば、その狡猾さはどれほどのものか計り知れない。
しかも、今の状況を見よ。
温泉、倒れた少女、異世界。これは完全に「お決まりの展開」ではないか!
いかん。ここで気を抜いたら、俺の異世界ライフは波乱の幕開けである。
だが、そうは言っても、人として見捨てるわけにはいかない。しぶしぶ彼女の肩を揺すり、声をかける。
「おい、死んでるのか?」
返事はない。だが、呼吸はある。しかも、やたらと熱い。異様なまでに体温が高い。これは……ただの発熱ではない。
俺は慎重に彼女の身体を観察する。すると、彼女の耳がかすかに動いた。
そして──
「……ここは?」
少女の琥珀色の瞳が、うっすらと開かれた。
「俺の温泉だ」
俺は堂々と答える。これは 俺の 湯なのだ。俺が掘り当てた、俺の血と汗の結晶である。
しかし、少女は特に驚いた様子もなく、ゆっくりと上体を起こした。そして、俺をじっと見つめてきた。
「あなたが……掘り当てたの?」
「そうだ」
「ふうん」
──なんだ、その 「男がこんな偉業を成し遂げるなんてねえ」 という含みのある声は!
俺はここで直感した。この女、何かを知っている。
少女はふと、自分の手を見つめた。そして、小さく呟いた。
「……やっぱり、この泉だったんだ」
「この泉?」
「この温泉は、ただのお湯じゃないのよ。これは……"進化の泉"」
進化の泉?
俺は内心で驚きつつ、表面上は冷静を装う。男というものは、女の前で動揺を見せてはいけないのだ。
「進化の泉、ねえ。どういう意味だ?」
少女──リュナと名乗った彼女は、静かに語り始めた。
「この世界の生命は、適切な環境を与えられると、"分裂" し、"進化" して数を増やすことがあるの」
「分裂と進化?」
「ええ。たとえば、この泉の周囲に生えている植物……普通の植物とは違うでしょう?」
俺は目を向ける。温泉の周りには、妙に生気に満ちた奇妙な草木が生えている。金色の筋が走り、葉脈がかすかに脈打っているようにも見える。
「これらの植物は、温泉の成分を吸収して急激に成長し、時には突然変異を起こす。そして、それを食べた生物もまた、進化の影響を受ける」
……思い当たる節がありすぎる。
たとえば、六本足ウサギ(仮)。あいつはこの草を少しかじっただけで、体毛が光り、一瞬で成長した。
つまり、この温泉は、生命を変えてしまうのだ。
「なるほどな。じゃあ、お前はこの温泉の力を調べに来たってことか?」
「ええ……でも、私自身がその影響を受けてしまったみたい」
彼女はゆっくりと尻尾を動かした。その動きは、先ほどまでと比べて妙に力強い。
「……どうやら、私は進化しつつあるみたい」
そう言って、彼女は俺を見つめた。
おい、待て。俺は別に怪しげな実験をしたわけでもないのに、勝手に進化しないでくれ。
「進化って、どの程度変わるんだ?」
「場合によるわ。体が強くなることもあれば、別の能力が開花することもある。でも……」
「でも?」
リュナはわずかに顔を曇らせた。
「急激な進化には、リスクもあるの」
俺は直感的に悟った。つまり、この温泉の力は諸刃の剣なのだ。
成長を促すのはいい。しかし、それが制御できなければ、生命のバランスが崩れる。人間にとっても、動物にとっても、これは危険な力だ。
「なるほどな……。これは、慎重に使わないとやばいな」
「ええ。だから、私はそれを知るためにここに来たの」
リュナの目には、確固たる意志が宿っていた。
俺は少しだけ考え、そして言った。
「……よし、だったら協力しようぜ」
「え?」
「俺はこの異世界で生き延びるために、あらゆるものを研究してる。お前の知識があれば、この温泉の力をもっと深く理解できるかもしれない」
「……ありがとう」
リュナは、ふわりと微笑んだ。
俺は心の中で、「しまった」と思った。
こういう風に微笑まれると、男というのはつい油断してしまう。
まったく、これだから女というものは油断ならないのだ。




