137 あの人が灯した火
そのあとは、もはや巡礼であった。満たされた胃袋を抱えながら、私はカズマの後ろをついて、次の目的地へと向かった。
「……ねえ、あの……ちょっとだけ、寄り道しませんか」
「おや? この街に来てまだ数日と経ってない新人さんが、寄り道をご所望ですか?」
「だって……あれ、気になってたんです。博物館。あの、あそこに立ってるでしょ、瓦みたいな屋根の、城みたいなやつ」
私は指差した。坂の向こう、青銅色に輝く屋根が夕陽を跳ね返している。煙突のない建物は、むしろこの街では珍しい。
「……あれは、まぁ、僕らの苦労の塊ですね」
カズマが、ポケットから細長い木片を取り出し、くるくると指の間で転がした。
「それじゃ、行ってみましょう。あそこには、物語の“しかばね”がいっぱい転がってますから」
私は、驚いた。
というより、歩き始めた五分で、後悔した。なんで、こんなに山登り仕様なのか。なんで、こんなに人が多いのか。
「お、お疲れさまでした……博物館です」
カズマはさりげなく道を開けた。私は、息も絶え絶えで階段を上り、目の前にそびえる扉に手をかける。ちょっと重い。でもその重みが、過去の重さのようで、妙に納得した。
木の扉が、重々しく、けれどどこか礼儀正しく、軋んだ。
博物館の空気はひんやりしていた。冷房というわけではない。外気の熱を拒絶する厚い石の壁と、奥深く積み重なった時間が、勝手に温度を下げているのだ。空気の粒子一つひとつが、やたらと静かで重い。
「……ここ、こんなに静かなんですね」
私は囁くように言った。音を出すことに、ためらいすら覚える空間だった。
「ここに来ると、みんなそう言います。音がね、吸われるんですよ」
カズマが、どこか懐かしむように言う。彼の背中越しに見える展示のひとつ――それは、ただの槍だった。が、ただの槍であるはずがなかった。
「これ、最初の漁に使ったやつです」
小さなプレートに刻まれていた言葉。“貫けぬ魚”と戦った日。凍てつく鉱石と、閃き。試行錯誤の果てにたどり着いた“最初の一刺し”が、ここにあった。
「これで、魚を凍らせて……?」
「はい。当時は、食べられるものが限られてましたからね。肉ばっかりで、うんざりしてたんです」
私は、展示品を順に辿った。魚を焼いた串。簡素な木の椀。発光する果実を模した模型。木で作られた小屋の一部。
「これ……動いてません?」
「そう見えるでしょう? 実際に動いてたんですよ、当時は。鼓動する小屋。呼吸する壁。寝ていると、妙にあったかくて」
まるで、生活そのものが、どこか生き物のようだったという。異世界の素材を使い、異世界の法則で組み上げた暮らし。その原型が、ここには詰まっていた。
そして、その展示室の片隅に、ぽつんと置かれていた一枚のスケッチ――六本足のウサギの姿が描かれていた。
「これ……あの、今は人の姿になってるっていう……」
「ルナですね。彼女が最初でした。進化ってやつを、文字通り、体現した存在です」
私はじっと、その絵を見つめた。そこには、どこか愛らしく、けれども不気味さを湛えた動物が描かれていた。進化の前触れ。変化の原型。
「ここ、すごいですね」
「でしょう?」
私たちは、しばらく無言で立ち尽くした。
……そして、最後の展示室に足を踏み入れたとき、私は気づいた。
空気が、違う。
さっきまでの展示と何かが違う。照明の色も、床の材質も、展示の並び方も。それは、どこか、私がよく知っている“何か”の気配をまとっていた。いや、正確には、“いま”知ったばかりの気配である。
小さなブースがあった。目立たない角。赤銅色の小さなランプが、控えめに灯っている。その奥に、一冊の本が置かれていた。ページは開かれていて、展示というより、まるで「続きを読んでください」と差し出されているような配置だった。
私は、座った。
背後の喧騒が遠ざかり、世界から一つだけ、音が消えたような静けさが訪れる。
そして──私は読んだ。
ページを繰るごとに、私の脳裏には、ある男の姿がくっきりと立ち現れていった。最初は火を灯し、水を求め、島の木を削りながら道具を作っていた彼が、気づけば仲間を増やし、拠点を築き、村を、そして街を作り、文化を、技術を、人の営みを、この地に根づかせていく。そのすべてが、緻密に、愚直に、記録されていた。
そして最後のページ、書きかけの文の下に、名前がうっすらと刻まれていた。けれど、かすれていて、読めなかった。たぶん、わざと。
私は、そこで笑ってしまった。こんな手の込んだ演出をする作者がいるだろうか。いるのだ、この街には。この物語には。
「……ああ、もう。あんた、絶対、性格悪いでしょ」
私は誰にともなくつぶやき、口元を緩めた。
たぶん、その“主人公”ってやつは、物語を語るときですら、誰かをちょっと驚かせたくて仕方がない、そんなやつだったんだろうと思う。
私はその展示の前で、しばらく立ち尽くした。
そうして、ようやく知ったのだ。自分が今いるこの街が、物語の続きなのだということを。ここには、まだ語られていない“これから”が、いくらでも転がっているのだと。