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137 神殿との邂逅

 人生には「初めての〇〇」が何度かある。

 初めてのおつかい、初めての告白、初めての失恋。そして、今この瞬間、私は「初めて異世界で乗り物に乗る」という非常にニッチで誰とも共感できない“初めて”を迎えていた。


 「……え、これほんとに動くの?」


 蒸気と魔素を使って走るらしいこの乗り物は、見た目こそクラシックな路面電車風である。が、車体横に刻まれた魔導回路の文様や、吐き出される蒸気の香りは完全に“現実離れ”しており、私は乗り込むだけで軽くめまいを覚えた。


 「まあ慣れますよ。だいたい、みんな一度は酔いますけどね」


 例によって頼れるようで信用ならない案内人・カズマは、慣れた手つきで乗車票の魔素タグをかざした。タグは小さく光り、私の分もまとめて登録されたらしい。


 「ご新規さん、初ライドおめでとうございます。次は胃袋の洗礼ですね」


 「なにそれこわい」


 列車の中は思っていたより広く、座席にはふかふかのクッションがあり、窓からは複数の塔と市場、荷車、空を滑空する荷物台車までもが見渡せた。が、私の意識はその景色よりも、次に向かう先――“食事”に全神経を集中させていた。


 「で、ほんとにうまいんですか?」


 「うまいなんてもんじゃないです。市民の三分の一はあそこのランチのために生きてる説ありますから」


 どうやら行き先は、“蒸し焼き定食”で有名な庶民派食堂らしい。だがその到着前に、事件は起きた。


 「止まってください、次の交差点、警備解除できていません」


 運転手らしき魔素通信士の声とともに、車両がピタリと止まった。車内の空気がわずかにざわつく。私はびくつき、カズマはのんびりと靴を直している。が、次の瞬間、前方車両のドアが開き、地を踏むような音と共に、彼女が現れた。


 金属の軽やかな音と、空気の緊張。


 長身の女性が、まっすぐに車内を歩いてきた。背筋は矢のように真っ直ぐで、腰には剣、肩には標章。静かな圧力をまとうその姿に、周囲の空気が瞬時に整列する。


 「……フィオナ防衛大臣だ」


 誰かが小声でつぶやいた。私は、視線が合っただけで背筋が勝手に伸びるのを感じた。


 「状況確認。三分以内に運行再開。乗客はそのまま、問題なし」


 彼女は一言だけ残し、魔素通話端末を取り出して車外へ消えていった。交差点の魔素バリアが解除され、車両が滑るように再起動するまで、たった九十秒。


 「かっこよ……」


 思わず漏れた私の声に、カズマが鼻で笑った。


 「まぁ、彼女は仕事人ですから。でもね、あの人、あのあと同じ食堂に来る確率が高いですよ」


 「え?」


 「警備視察の合間に必ず一食、あそこで蒸し焼き食べるって決めてるらしいんです」


 どういう防衛スタイルなんだ。


 そして我々は、滑るように再び動き出した車両に揺られながら、目的の食堂へと向かった。空気にはまだ、フィオナの一言が残していったような緊張感の名残があったが、それも数分後には、街の活気と蒸気の音に飲まれていった。


 「で、本当にそんなにうまいの? 蒸し焼きでしょ? なんか、シンプルすぎて逆に怖いんだけど」


 「“シンプルすぎて逆に怖い”ってのが、もう答えなんですよね。ごまかしがきかない。だからこそ、うまい」


 そう言いながら、カズマは軽やかに車両から飛び降りた。私はその後ろ姿を追いながら、次の「初めて」に少しだけ胸を高鳴らせていた。胃袋の洗礼。それが今、目の前に迫っている。


 ──そして、食堂の前に立った瞬間、私の脳は確信した。


 これは、店じゃない。もはや神殿だ。


 入口の軒下からは、もわもわと湯気が立ち上り、扉のすき間から漏れ出す香りは、ただの香りではなかった。香りが、味だった。嗅いだだけで味がした。焦げた皮、甘くとろける脂、香草の刻まれた炭の香り、そして、絶妙に焦がされた“なにか”が発する魅惑のスモーク。


 「…………」


 私は無言で、扉を開けた。


 中は広くない。けれど、椅子も机も、壁に飾られた調理器具も、すべてが油と煙と熱で染め上げられたような、最高の使用感で満たされていた。


 「ふたり、蒸し焼きでいいですねー」


 出迎えたおばちゃんの、問答無用の笑顔。いやもう、聞く気もなかったでしょ。


 案内された席に着いた途端、あの匂いが真正面から襲ってきた。直撃だった。胃が、音を立てて悲鳴を上げた。


 「おまちどおさま~。今日のはね、炙り根菜と塩締め魚の合わせ焼きだよ。汁は藻のだしでとってるから、少しぬめりがあるけど、それがうま味だと思ってね」


 目の前に置かれた盆には、熱々の鉄鍋、その周囲にきっちり並んだ三色おにぎり、小鉢のマリネ、そして茶碗一杯のスープ。


 だが、まずは鉄鍋だ。逃げてはいけない。蓋を、持ち上げる。


 ──ぼわっ。


 蒸気が一気に広がる。その白い靄の中に、黄金に焼き色のついた魚の切り身。香草の葉が添えられ、まるで絵画のような配色。炙り根菜は肉厚で、箸を差し込むとすっと通る。中心部がほんのり透けるような半透明で、煮込みと焼きの奇跡的な中間地点に存在していた。


 「…………」


 私は、ただ一切れを口に運んだ。


 甘い。柔らかい。噛むたびにじゅわっとあふれ出す汁は、もはや出汁ではなかった。旨味そのもの。口の中で暴れたあと、何事もなかったように喉をすべっていく。


 魚は──なにこれ。表面はぱりっと炙られていて、なのに身はふわふわで、まるで湯葉みたいに崩れる。塩気がちょうどよくて、米を誘導する気しかしない。


 そしてその米。三色。ひとつめは藻塩昆布で、これがもう、しっとりした昆布がもっちり米と溶け合って、噛むごとに昆布の旨味が倍化する。


 「なにこれ……どうなってんの……」


 隣を見ると、カズマは無言で三つ目のおにぎりを食べ終えていた。


 「しゃべって……何か言って……」


 「言葉いります?」


 いらなかった。


 食べ物って、ここまで来ると、もう会話じゃなくなるんだ。崇拝なんだ。


 私は、残りのスープに手を伸ばす。茶色がかった透明なそれは、よく見ると底にとろりとした藻の筋が揺れている。レンゲをすくって口に含むと、ぬるりとした舌触りのあとに、驚くほどクリアな塩味と深い旨味が広がる。


 「うっ……」


 目頭が熱くなる。こんなにおいしいものが、この世界にあるなんて。

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