134 知られざる大国
戦のあと、街には、焦げた匂いと昨晩から煮込まれていたと思しきスープの香りが入り混じっていた。
どちらかと言えば、スープの勝ちだった。つまりは、そういう街である。
斧を振るった連中は消えた。だが斧の影は、建物の軒先や子供の背中に、あるいは昼寝を試みた俺の夢の中にまで、しつこく張り付いていた。斧とは、終わったあとに存在感を発揮する道具である。うるさい奴らだ。
戦争というものは、終わってしまえば案外“片づけの行事”に過ぎなかった。崩れた壁を直し、割れた窓を板で塞ぎ、書きかけの帳簿を拾い集めて、また一ページ目からやり直す。日常とは、そういうものらしい。強引に続ければ、いつの間にか再開されたことになる。
だが、死んだ者は戻らない。
その点について、この街はやたらと合理的だった。供養の場はある。花もある。けれど、そこに悲鳴も嘆きも残らない。ただ静かに、“次”のための場所になっていた。
「また増えたらしいよ」
「どこから?」
「知らん。たぶん海から?」
「え、うさぎが?」
「いや、違う。それは昨日の話だ」
うさぎが、増えた。獣人も、人魚も、漂流者たちも。死んだ数を補って余りあるほどに、街には新たな顔があった。もはや補填ではない。これは上書きだ。
この街は、死者を忘れる代わりに、常に誰かを迎え入れる。そういう都合のいい土壌でできている。誰も意図していないのに、勝手に耕されて、勝手に芽を出す。文明とは、往々にして雑草である。
そんな流れで、港に知らない船がついた。
この時点で「またか」と呟いた俺の心は正しい。港とは本来、魚を干したり、舟を泊めたり、浮貝を踏んで遊ぶ場所であるはずだが、この街においては「世界のほうが勝手に寄ってくるところ」として機能している。困ったものだ。
今度の船は、実に整っていた。
帆は白、舳先には妙に抽象的な像。色合いも派手すぎず、地味すぎず、「歴史と格式と保守の中間あたりでうろついている国」の典型的デザインだった。
そして現れたのが、例の外交官(仮)である。
彼は甲冑を着ていた。が、戦う気配は一切ない。全身から発されるのは“長話の気配”だけだった。
「我々は、先の動乱を受けて……」
始まった。
この人たちは、だいたい“先の何か”を受けて来る。何もなかったとしても、どこかで何かが“先にあったこと”にして、来る。そしてだいたい、喋り始める。
「貴地の統治体制、文明的成熟度、技術の水準、交易における安全保障上の……」
「どうぞお座りください。ちょうどパンが焼けましたので」
俺の言葉で、彼は一瞬だけ硬直した。
外交官(仮)は、パンの焼ける匂いを“戦術”と解釈した可能性がある。だがこの街においては、パンが焼けているなら会話も進める──そういうローカルルールがあるのだ。
「……恐縮です。焼きたて、ですか?」
「うちのウサギが膨らませました」
「ウサギ……」
明らかに“それは何かの比喩か?”という顔をしていた。違う。比喩ではない。物理的にウサギが膨らませている。だが、それを説明しても事態は悪化するだけなのでやめておいた。
「先の戦闘は我々も監視しておりました。非常に……興味深い事例でした」
「そうですか」
「まさか、ここまでの防衛体制が……」
「まあ、いろいろやってます」
「ですが……正直申し上げて、この場所が“未登録”であることは……」
「未登録、ですか?」
「国際的には、です。国としての認定が……」
「はあ」
パンをかじる。外交官(仮)は、その様子を見て何かを諦めたようだった。
「つまり、登録されてないのに戦えるし、技術はあるし、人口も増えている。しかも国旗もない。そういう存在が、現在……」
「心配なんですか?」
「……ええ、率直に言えば。異質な存在として」
俺はもうひと口、パンをかじった。
この街は異質だ。誰もそのつもりで始めたわけじゃない。始まりは、だいたい流されて来たことだった。俺たちは島に流れ着き、風に吹かれ、獣と戦い、うっかりパンを焼き、気づいたら郵便ウサギができていた。そういう街だ。
「でもまあ、そちらが国家として見てるなら、もうそれでいいんじゃないですか」
「しかし、国家として認定するには……」
「誰かが宣言しないと、国って成立しないんですか?」
「……形式上は」
「ふうん」
しばらく沈黙があった。港に風が吹いた。帆がはためき、貝がひとつ跳ねた。
「こちらとしては、技術面での協力関係も視野に……」
「うちは、あんまり統一感ないですよ。技術も生活も、すべて“そのとき一番うまくいったやつ”で固まってるので」
「……それは、非効率では?」
「でも、まあ、回ってます」
そう言うと、外交官(仮)は黙った。たぶん、計算できないものに出会ってしまった時の顔だった。効率でも秩序でもなく、ただ“生きている”もの。それがこの街だ。
「では、あらためて協議の場を……」
「どうぞ。今度はウサギが議事録取りますから」
「……それは、比喩では?」
「いえ、違います」
俺は言い切った。外交官(仮)は、それ以上何も言わなかった。
たぶん、何もかもが“違う”ことだけ、確信したのだろう。
そしてその確信こそが、今この街が、世界にとって「ただの島ではなくなった」証明でもあった。