132 剣の只中
フィオナという女は、最初から浮世離れしていた。
鎧を着たまま浜辺に転がっていた女というのは、それだけで充分に厄介である。だが彼女の場合、その厄介さに“正当性”という名のややこしさが付随していた。曰く、前世では王国の騎士。曰く、“大いなる災厄”を超えてきた。曰く、剣を持って眠りにつき、剣と共に目覚めた──。
つまり、筋金入りの戦闘狂である。
彼女が語るその“災厄”とやらの中身については、だいたい八割が神話、残り二割が怪談である。それでいて本人は終始まじめな顔をしているから質が悪い。おまけに食事中も剣の手入れを欠かさず、夜中に訓練している音で何度俺の眠りが中断されたことか。
「昼寝の何が悪い」
ある日、そうぼやいた俺に対して、彼女は真顔でこう返した。
「敵は昼寝しない」
だからどうした。
だがその一方で、彼女が“戦う”という一点において圧倒的であることも、俺は嫌というほど知っていた。
──そして今、目の前に“戦場”がある。
敵は密集していた。わらわらと詰めてきた。
盾を持ち、槍を突き出し、まるで“人間による戦車”とでも呼びたくなるような陣形である。そこに突っ込むなど、自殺か酔狂か、はたまた何も考えていないかのどれかだ。
だがフィオナは、突っ込まなかった。立っていた。まるで“そこが自分の部屋の中央だ”とでも言いたげに。
彼女の立ち位置は、どう見ても最悪だった。
正面、最前線、最も殺されやすい“死点”と呼ぶにふさわしい場所である。
普通なら一目散に逃げ出す。なぜなら、死ぬのは嫌だからだ。
ところがこの女、動かない。むしろ微動だにしない。
観察者の視点からすると、構えにも欠陥だらけだった。左肩が甘く開き、重心はやたらと低く、剣の角度もふらふらしているように見える。もし武道大会の審判がいれば、開口一番に「もう少し真面目にやりなさい」と注意される構えである。
ただし──結果として、それらは“隙ではなかった”。
陣形が接近する。
地面がわずかに沈む。重さの総和が、風を変える。
槍が、出る。
その瞬間、彼女の身体がわずかに沈み──
左足が、石の角を踏む。
無意識か。意識的か。
最初の槍の軌道が外れた。
反射的に前進する盾兵の肩と肩の継ぎ目に、剣が滑り込む。
殺すための斬撃ではなかった。
“止める”ための角度だった。
肩を裂かれた男は、叫ばなかった。
声を出す余裕があるほど、浅くはなかった。
剣が通った直後、彼の膝は崩れた。
次の男がその死体を踏み越えようとする。
フィオナは剣を引かない。
構え直すことすらしない。
ただ、重さを預けて、刃の“返し”だけで、喉を裂いた。
このあたりで、戦場は異変を“理解しはじめる”。
戦術の機能不全ではない。
戦士たちが愚かだったわけでもない。
ただ──そこにいた剣士が、想定から逸脱していた。
槍兵たちはそれでも刺し続けた。
盾の隙間から、打点を変え、足元から、斜め上から。
それを、彼女は“削っていった”。
一手ずつ、進まないまま。
一手ずつ、後ろに退かないまま。
斬る。
外す。
切り裂く。
止める。
構成要素は少ない。派手な技もない。
だが、すべてが“完了していた”。
やがて、前列が崩れた。
列の崩壊とは、順番の崩壊である。
誰が出るか。誰が引くか。どこを押さえるか。
それが曖昧になる。
それは、“死ぬ側”のリズムだ。
その後も彼女は剣を止めなかった。
斬った相手が腕を振り上げれば、その腕を断ち、
叫ぶ相手がいれば、その声の根元を突いた。
盾が落ちたとき、そこにはもう「戦術」という言葉すら残っていなかった。