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130 漂流者の意地

 戦争がやってきた。


 しかも、今日である。どうしてもっと事前に言ってくれなかったのか。こちらにも都合というものがある。朝にパンを焼き、昼に干し肉の塩加減を調整して、午後は昼寝の予定だった。なのに、である。昼寝の夢に出てきたのは、角付き兜に斧を持った怒れる北方民族。夢ではなく、現実に。


 「おいおい、バイキングってこの世界にいたのかよ……」と誰かが呟いたが、今さらそんなことはどうでもいい。大事なのは、この街──いや、仮の街、建設中の未完成都市が、今日にも灰になるかもしれないという事実である。


 「さて、戦争が始まりましたよ」


 商人の女が静かに言った。どこか楽しげで、どこか疲れていて、でもちゃんと事務仕事を済ませてから逃げるタイプの女である。彼女は即座に物資の確認を始め、支給リストを編み出していた。戦場でも帳簿は回る。


 「パンあります! 焼きたてです!」


 パン職人が叫んだ。あまりにも平和的な宣言に、敵兵も「焼きたて……?」と足を止めかけたという噂があるが、それも一瞬のことで、次には斧が振り下ろされていた。パンは潰された。平和の象徴、ここに崩壊。


 「川がある。滑る川だ。使えるかもしれん」


 狩人が、鋭く言った。彼女の目は常に森を見ている。戦場でも動じない。怠け者の狩猟理論を唱えるくせに、なぜか誰よりも働く不思議な女だ。俺はその言葉に、静かに頷いた。


 「滑る川……ああ、あそこだ」


 俺は思い出す。第2話、誰も知らなかった水源。光る藻の川。誰も信じなかったが、俺はその水を濾過し、貯め、管理し、毎日、毎日、一人で煮沸してきたのだ。もちろん誰も知らない。みんな「最初から水あったよね?」みたいな顔をしている。いいだろう。覚えてなくていい。俺はそれで、ちょっとだけ強くなった。


 その水を、今、取り出す。


 「飲め! 回復は幻想だが、気合は実在する!」


 「ぬるいけど……なんか、シャキッとする!」


 「効いてる気がするだけでありがたいです!」


 戦場における心理的プラシーボ効果は、かなりの効力を持つらしい。水は、水でしかない。でもそれを“誰かが用意した”ということが、今のこの混沌の中では奇跡である。だから、人はそれを飲んで立ち上がる。


 設計士と建築士が、敵の進行ルートを見ていた。


 「風が……曲がっている」


 「こっちは地盤が甘い。転ばせるならこの辺だ」


 語彙は詩的か実務的かで分かれるが、二人の見ているものは同じだった。構造の歪みと、転倒率の高いポイント。それを即座に地図に起こし、職人がそこに“何か”を仕掛ける。中身は聞かないほうがいい。たいてい危険だ。


 裁定者は掲示板にペンを走らせながら、敵の進行状況を「秩序ある記録」として書き記していた。戦場の混乱にすら境界線を引こうとするその姿勢には、正直頭が下がる。いや、むしろ膝が震える。


 獣人の鍛冶師は、炉の前で黙々と武器を打っていた。敵の血を啜るような凶悪な形状の刃が次々と出来上がっていくのだが、なぜか全部、俺たちには重すぎて使えなかった。結果として、彼の武器は全部、ゴーレム専用になった。本人は「まあいい」と笑っていたが、内心ではちょっと寂しそうだった。


 「道は、逃げるためにある」


 道職人の男が、しれっと核心を突く。戦うための場所だけが戦場じゃない。引くことも、粘ることも、次に繋ぐことも──全部、生き延びる戦術である。


 芸術家は、布を振りながら敵の前で踊っていた。効果は不明だが、少なくとも敵が「なんだこの街は」と困惑していたのは事実だ。戦場において、“わからないもの”は強い。


 そして、俺はというと──


 川に向かって敵を誘導していた。


 「逃げろー! 助けてくれー!」


 それは偽装である。後退ではなく、誘導。滑る川底、ぬめる苔。そこに敵が踏み込んだ瞬間、足を取られ、滑り、倒れる。そこを一斉に叩く。それが、我々の精一杯の“勝ち筋”だった。


 「うおおお!? なんだここは!?」


 「ぬるぬるしてるぞ!」


 混乱の声が上がる。バイキングたちが団子になって倒れ、こちらの槍と棒と角材が振り下ろされる。それは戦いではなく、共同作業だった。俺たちは誰ひとり、英雄ではなかった。ただ、粘り強く、愚直で、そして妙にしぶといだけの、漂流者だった。

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