117 大地を走れ
文明の光とは、えてして煙と音を伴う。
俺がそれに気づいたのは、今まさに目の前で巨大な鉄の塊が「シュオオォォ……ッ!」という迫力ある吐息を吐いていた瞬間だった。
この世界に来てから、俺は多くの“まだ名前のついていない技術”と出会ってきた。だが今回ばかりは、名づけた瞬間に全てが始まった気がする。
名は「駆道車」。蒸気と魔素の力で地を走る機関車である。
「地面を這う箱を作りたいんだよ」
最初にそう言った時、設計士は例の“思想が逃げないと家が病む”と同じ口調で首をひねった。
「なぜ地を這うんです? 飛んでしまえばいいでしょうに。風は自由で、地面は重いのに」
「いやいやいや、逆だ。重いからこそいいんだよ。人はな、どこへ行くにも“道”を求めるもんなんだ」
「それは哲学ですか?」
「ロマンだ」
その時、隣で聞いていたエリスが、「……それ、便利なの?」と小首をかしげた。
エルフという種族は、効率と調和を美徳とする傾向がある。つまり、ロマンという概念にはいささか無頓着だ。
「大量の荷物を運べるのは確かよね。歩くよりずっと速く、馬車よりも重いものを」
「だが、それだけじゃない」
俺は胸を張った。
「これは“地を走る技術”だ。飛行船は空の夢、船は海の浪漫、そしてこれは……文明の鼓動だ」
「文明の……鼓動?」
セリアが訝しげに眉をひそめる。最近、妙に俺に対して突っかかる言い方が多いのは気のせいだろうか。
「また、男特有の意味不明な感動ね」
「いや、意味はある。見てみろよ、この歯車とレバーの塊。燃えるだろ? この無駄に複雑な構造。この振動。この金属音。これが“動く”ってことの美しさなんだよ」
「わからない」
俺の発言にセリアとエリスが同時に返事をする。
だが、それでこそいい。文明というのは、常に“無理解の上”に築かれてきたのだから。
俺は設計士と共に、魔素の流れをどう変換すれば車輪を駆動できるか、歯車の角度と熱の逃がし方をどう設計すべきか、連日実験と爆発と火傷を繰り返した。
「なぜタイヤに“柔らかさ”を加えるのです?」
「快適性。あと、ギシギシ言う音がなんか嫌だから」
「音は大事ですか?」
「ロマンだからな」
いつの間にか、設計士も「ロマン」という単語を“妥協の合図”として理解し始めていた。
駆道車の完成が近づくと、村中がそわそわし始めた。
見習いたちは無意味にタオルを肩にかけて“整備士”を気取り、子どもたちは車体の下に潜って「おれは火の番だ!」と叫んでいた。
女性陣はといえば、
「これ、野菜運ぶのに便利かもね」
「市場間の移動時間が短縮されるわ」
と、実用面ばかり見ている。たしかに正しい。正しいのだが、何かが違う。
それは、“心”だ。
試験運行当日。俺は先頭に立ち、金属の床に片足を乗せた。
歯車が回る。蒸気が鳴く。魔素がうなり、軋むように駆道車は走り出す。
その瞬間、背筋が震えた。
これだ。これこそが、男の子の心に眠る“前進の快感”だ。
俺は振り返った。エリスとセリアがやや引き気味に拍手していた。
構うもんか。彼女たちには実用がある。俺たちには、ロマンがある。
こうして、文明は一歩、地を這い始めたのだ。歯車と煙と共に。