115 空を裂く鼓動
まず断っておかねばならぬのは、我々は空を支配しようなどという不遜な野望を抱いたわけではない、ということである。あくまで「移動手段の多様化」あるいは「物流の効率化」、もっと砕けた言い方をすれば、「なんか浮いてるもので遠くまで行けたら楽しいよね?」という、少年のような心から始まった計画なのである。たぶん。
しかしながら、少年のような心というものは得てして極端であり、なおかつ技術者の手に渡るとすぐに“空を裂く巨体”と化してしまう。結果、我が街に誕生したのが、“飛行船(仮)”である。
これを“飛行船”と呼ぶことに関しては、若干の抵抗があった。なぜなら、構造的には「屋根のついたふわふわしたお化け風船」であり、素材的には「空で採れた、ちょっと信用できない植物の寄せ集め」であり、ビジュアル的には「妖怪のすみか」みたいな風情だからだ。
だが、セリアが言ったのだ。「これは飛行船よ」と。そう聞いた瞬間、それはもう飛行船である。彼女は命名において他人の意見を一切聞かないという才能を持っている。俺たちは抗議の権利を放棄するしかなかった。
製作には数週間を要した。なにしろ、材料が一筋縄ではいかない。羽根苔は乾かすと浮くし、湿らすと笑う。浮胞草は風が吹くたびにふくらみ、膨らむたびに割れる。風蔓は湿度で伸び、怒ると締め付けてくる。何もかもが人間に優しくない、つまりこの異世界において“普通”の素材であった。
だが、我々は人間である。つまり、繰り返す。何度浮かせては壊し、繋いでは裂き、飛ばしては爆発し、何度ルナが蔓に巻かれて宙吊りになったことか。彼女は試作第七号の時点で「もうこの空間にしか存在できない気がする」と呟いていた。
設計士は言った。「この船体は、風の意志を読み取る必要がある」
細工職人は言った。「この舵は、風に愛されなければ動かん」
セリアは言った。「ネーミングが悪いと魔素が偏るわ」
俺は、もはや何も言わなかった。言っても風に飛ばされるだけだと知っていたからである。
そして、ついに完成した飛行船──正式名称「フワリ号」が、村の中央広場に姿を現した。
空を行くために生まれた、不安定と優雅と滑稽の塊である。
空気をたっぷり含んだ羽根苔の船体。浮胞草で織られた風膜の帆。風蔓で制御する舵と張り綱。全長は家三軒分、浮力は計算上ギリギリ、そして魔素の共鳴で推進する仕組みである。説明された俺は「なるほどわからん」としか言えなかった。
「じゃあ、いよいよ試験飛行ですね!」
ルナが腕まくりをした。セリアは魔素計を睨み、エリスは風の流れを感じて目を細めた。フィオナは黙って船に乗り込み、俺も負けじと(本当は負けたくて仕方なかったが)乗り込んだ。
飛行船は、浮いた。
ふわり、と音もなく、まるで「ごきげんよう」とでも言いたげな顔をして。
しかし、その“ふわり”はすぐさま“ぐらり”に変わり、“ぎゅわん”と風に引っ張られ、“ずばばばばっ”と帆がしなり、“ぎいぃっ”と蔓が悲鳴を上げた。
「なにこれ揺れるぅぅぅ!」
「揺れるのが当たり前でしょ! だって風に乗ってるんだから!」
「でもこの揺れ、なんか……人をダメにするタイプのやつ!」
「セリア! 風蔓が反抗してる!」
「それは舵の角度が甘いのよ!」
「俺、今どこに立ってるの!?」
「そこ、魔素の流れに逆らってるから!」
船内は大混乱だった。だが、外から見ると――それは実に、優雅に浮かんでいた。
まるで「空の散歩」という言葉の具現のように、街の上空をゆったりと、しかし確かに進んでいた。
地上の住民たちは、口を開けて見上げていた。誰かが言った。「……あれ、成功じゃないか?」
俺は、ぐらんぐらんに揺れる船内で、ふらふらしながら立ち上がった。
「……うん、成功だな。これは、俺たちの勝利だ」
その直後、天井から浮胞草の房が剥がれて落ちてきて、顔に直撃した。
「痛っ!」
ルナが笑っていた。エリスは風を指でなぞり、セリアは「次は帆をもうちょっと可愛くしよう」と言っていた。
街は見上げていた。空を裂く軌跡を、目で追っていた。
その夜、村には新しい風が吹いた。空を見上げた人々の瞳に、“届かないと思っていた場所”が、少しだけ近づいた気がしたのだった。