110 魔素郵便の夜明け
通信とは、浪漫である──と、ある日セリアが言い出した。
そんな高尚な響きをまとった単語が、果たしてこの村に似つかわしいのか。俺は内心でひどく疑問に思いながら、もぐもぐと干し肉を噛みしめていた。湿った風が吹き抜け、六本足のウサギが畑の境界線を無視して跳ねていく。ここに必要なのは秩序であり、連絡手段などという現代的幻想ではない──はずだった。
ところがセリアは、「これ、すごいのよ」と得意げに机に置いた。小さな石。微かに光る魔素の反応。曰く、「魔素共鳴石」といい、対になる石同士が共鳴して、音声情報を“なんとなく”伝えるらしい。
“なんとなく”というのが嫌な響きだった。なにせここは異世界である。明瞭さや安定性などという概念は、空に浮かぶ石と同じくらい当てにならない。
俺は一応、試してみた。石に向かって「セリア、聞こえるか」と囁いた。対になる石を持ったセリアがじっと耳を澄ます。
「“セリ……おい、光る魚を捕まえ……か”って聞こえた」
──駄目じゃないか。
しかも、その直後に石が加熱して、俺の指先を軽く焼いた。痛みと共に、通信という甘美な幻想は崩れ去った。これは革命ではない。小さな拷問装置である。
だがセリアはめげない。
「魔素の流れが不安定だったのかも。共鳴波の調整が必要ね。あと、空気中の音素干渉も……ああ、忙しい!」
俺はそっと石を布に包んで、物置に封印した。
数日後、彼女は第二の案を引っ提げてきた。
「風耳ウサギ、使えるかもしれない」
その瞬間、俺の脳裏には、滑空するもふもふの群れが浮かんだ。風を耳で受け止め、空をすいーっと横切る、まるで生きた紙飛行機。あれか。郵便に使うには、あまりにも愛らしく、あまりにも気まぐれで、あまりにも……バカそうだった。
「飛ぶのはいい。でも、届けるか?」
「訓練するのよ」
セリアは目を輝かせて言った。まるで、モルモットに計算ドリルを解かせるつもりの顔だった。
最初の訓練は、見事なまでに失敗した。
俺が風耳ウサギの背中に小さなメモをくくりつけ、「これをセリアに届けろ」と念じながら放ったのだが、ウサギは滑空中に草の匂いに惹かれて方向転換し、畑に突っ込んで昼寝を始めた。
二匹目は風の流れに乗りすぎて、山の向こうへ消えていった。三匹目は、滑空中にくしゃみをして空中で一回転し、手紙を落として帰ってきた。内容は「うぇっくしょん」という擬音だけだった。
これは駄目だと思った。普通に歩いて届けたほうが百倍早い。
だがセリアは手を止めなかった。ウサギの耳に小さな魔素プレートを取り付け、滑空時の安定性を改善し、記憶力の良い個体を選抜し、何より、「ウサギが“手紙を運ぶこと”に喜びを見出す仕組み」を構築した。
報酬制である。
届けた先で、干し果実を一粒与える。ウサギは単純で、感情豊かで、そしてやたらと“ご褒美”に弱い。最初は偶然だったが、十匹中三匹が成功し、次の週には七匹、翌月には訓練された配達ウサギ隊が構築された。
その中でも、異彩を放ったのが「ススキ丸」である。
彼は地上三メートルまで滑空し、着地時にきっちり三回転し、受け取り手の前で「キュ」と鳴いて報告を完了する、天才だった。彼に届けさせれば、どんな急な斜面でも、迷子にもならず、しかも尻尾でサインを受け取るという器用さまで持ち合わせていた。
風耳ウサギの中に、天才がいた。それだけで俺は、異世界という場所に対して少しだけ希望を抱いた。
セリアはさらに改良を重ね、魔素共鳴石に再度着手した。ウサギに「石」をくくりつけ、記録された音声を相手に“再生”させる機能を加えた。
最初の実験では、ウサギが途中で音声を上書きし、「ぷるぷるぷる……おやつちょうだい」に改ざんされたが、次の世代では記録領域を魔素で固定することで防止。魔素郵便は、文字・音声・滑空を融合した、前代未聞の通信手段となった。
ある日、俺の元に届いた。ススキ丸が三回転して降り立ち、魔素石をぽとりと落とした。
「“お前、今日の議会、寝てただろ” セリアより」
──届いた。しかも余計なことまで。
だが、それでも俺は、ぽつりと呟いていた。
「これは、便利だな」
郵便が始まった。風耳ウサギが空を飛び、思いを運び、情報をつなぐ。空には滑空の白い軌跡が交差し、村には少しずつ、“届く”という文化が芽生え始めていた。
もふもふの郵便屋が跳ねるたび、世界が少しずつ狭くなっていく。
異世界で、ようやく“連絡”という魔法を手に入れた俺たちは、次なる課題へと進む準備を整えていた。
ウサギの背に、俺たちの声を乗せて。