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109 通貨という共通言語

 それはある日の夕暮れだった。空が夕焼けに燃え、六本足ウサギ(仮)が川辺で踊り出すにはまだ早い時刻。俺は広場の一角、ちょうど新しく張った石畳の端っこで、三日前からずっと残っている干し芋のかけらを見つめていた。


 この干し芋には、もはや人間としての尊厳など宿っていない。栄養価と物理的な存在感だけがそこにある。だが、問題はそこではなかった。


 「それ、いくらです?」


 声をかけてきたのは、商人の女性である。あの冷静沈着、緻密無比、交易の女王にして在庫リストの番人。俺が「干し芋を見ていた」というどうでもいい事実さえ、彼女の中ではすでに「物資の流通における価値観の象徴」として処理されているのだろう。


 「いくら……って、芋だぞ?」


 「芋ですが、“価値”はあるでしょう。あなたがそれを誰かに渡し、代わりに何かを得られるのであれば、それはすでに通貨の機能を果たしています」


 論理は正しい。だが俺は、理屈が正しいからといって納得できるほど素直な男ではない。


 「そもそも、お前、通貨を作るつもりか?」


 「作りません。“生み出す”のです」


 すげえ。語感が強い。


 とはいえ、問題は山積していた。村は急速に拡張し、広場はにぎわい、交易は自然発生的に成立している。だが、そこに明確な“価値基準”がない。物々交換は混沌を産む。たとえば、ウサギの腱三本と槍の穂先一個を等価交換する理屈を、俺には一生理解できない。ましてや「この羽毛、夜光性なので夜道に便利です」とか言いながら笑顔で靴と交換しようとしてくる獣人を、どう扱えばいいのか。


 「そこで通貨です」


 商人の女性は、俺の前にそっと置いた。金属片。美しい。魔素がうっすらと含まれた、鈍く光る円形の板。表面にはこの地に生息する奇妙な植物──ぐにゃぐにゃ動くくせに根は張っているという“意志の強い草”が彫られていた。


 「……この意匠は?」


 「無意味です。意匠に意味を持たせると、政治的な軋轢が生まれるので、ただの抽象的な印象で統一しました」


 こいつ……異世界なのに商業美術の歴史まで考慮してやがる……。


 そこに現れたのが、例の職人である。浮胞草を編み、羽根苔を撚り、空気の流れに思想を混ぜ込む、あの職人。彼は通貨をひと目見ただけで言った。


 「……風を通さない」


 風は関係ないだろ。と思ったが、黙って聞いていた。


 「この金属、熱伝導性が高すぎる。持って歩くには適さない」


 「それは冷却すれば──」


 「いや、そうではない。貨幣とは、体温と共存すべき存在である」


 なんだそれは。


 だが商人の女性はうなずいた。彼女は変人に寛容だ。というか、この村には変人しかいない。


 「では、素材を変えましょう。魔素結晶を混ぜて、指に馴染みやすくします」


 「指に馴染ませてどうする」


 「“持ちたい”と思わせなければ、通貨として流通しません」


 ……なるほど。納得した俺が負けなのか。


 そうこうしているうちに、獣人の鍛冶師が登場した。彼は例によって、巨大な槌を背負い、火花のような汗を振りまきながら言い放った。


 「通貨を作るなら、“鍛える”べきだ」


 まさかの製造方式への提案。


 「焼き入れをして、芯に魔素を込める。そうすれば通貨そのものが力を帯びる。“重み”が必要だ。物理的にも、象徴的にもな!」


 ……全員、黙った。だが、誰も否定できなかった。


 こうして、通貨は「魔素鍛造銭」という名で正式に採用された。硬貨の中には、うっすらと魔素が流れており、貨幣としての重みだけでなく、農業用の簡易魔導具にも再利用できるというおまけ付きである。


 市場では、さっそく商人たちがこの通貨で取引を始めた。干し肉一枚が一銭、保存水一瓶が三銭、六本足ウサギ(仮)の毛皮が五銭。価格が定まると、人々は安心して物を持ち寄り、交換した。


 その流れは、思った以上に速かった。職人はその日のうちに価格表を作り、獣人の鍛冶師は「銭箱」という名前の金庫を作り、そして商人の女性は夜な夜な帳簿を整えた。


 俺は、広場の端にある石の椅子に腰かけ、風の匂いを嗅ぎながらぼんやりとその様子を見ていた。市場には笑い声があり、計算があり、取引があり、欲望と好奇心と効率性が交差していた。


 「……これが、経済というやつか」


 誰にともなく呟くと、獣人の鍛冶師が隣に座り、言った。


 「だが、油断するな。通貨が生まれたからには、盗賊も生まれる」


 「ああ……その対策も、考えねばな……」


 俺たちの暮らしは、通貨という魔法によって、確かに次の段階へと進もうとしていた。


 だが、そこに待つのはさらなる混沌かもしれない。


 だってそうだろう。金はいつだって、人を狂わせるのだ。たとえこの異世界においても──。

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