103 進化の予兆
その日、俺は街の中央通りを「なんか起こりそうな気がする」という、極めて非科学的な直感を頼りに歩いていた。
この手の直感というのは、経験上あまり信用できない。たいてい空から何かが落ちてくるか、森から誰かが湧いて出てくるとか、そういった類である。
で、今回もお約束通り、森の方からそれっぽい“気配”がした。
俺は足を止めて、森の方をじっと睨む。隣にはルナがいて、耳を半分だけ立てていた。ウサギ族特有のあの気だるそうな姿勢だが、警戒だけは忘れない。
「なんか変な感じするよね」
「する」
「でしょ?」
「するする」
「絶対なんか来るよ、あれ。なんかっていうか、たぶん、やばいやつ」
「そんなこと言ってて、またキノコだったらどうするんだ」
過去にキノコ型生命体が街に迷い込んだ事件を引き合いに出した俺の言葉に、ルナは「キノコの方がまだマシ」と小声で返した。
そして、それは現れた。
森の奥から、ゆっくりと歩いてくる影──一見すればウサギ族に見えるその人物は、近づくにつれ「ウサギ“っぽい”」何かだとわかってくる。
脚はやたらと長く、背筋はこれ以上ないほどまっすぐで、耳の先が三つに分かれていた。瞳は琥珀色に光り、服の縫い目はまるで職人仕立て。どの角度から見ても“森で育ちました”という素朴さはなかった。
「こんにちは。私はコール。森に入った一族の末裔です。この街の話を、風の噂と歌で聞いて、来ました」
その喋り方はやけに洗練されていて、どこか貴族めいてすらあった。
ルナがぽつりと漏らす。
「……なにこの高級ウサギ」
俺も同感だった。高級というより、上位互換というか、バージョンアップというか、もはやジャンルが違う生き物に見えた。
しばらく呆然と立ち尽くしていた俺たちの前に、きらりと銀の鎧が割り込んできた。
フィオナである。
彼女は騎士であり、ウサギ族の戦術教官であり、なぜかウサギに対してやたら厳しい人物である。
無言でコールを見つめる彼女の目は鋭く、鋭利なナイフのように相手のスペックを切り刻む視線を放っていた。
「その耳……通常の跳躍力ではないな」
「はい。私の一族は、樹上生活に特化した進化を遂げました」
「うさぎなのに木に登るのか?」
「正確には、木を滑空します」
それはもうウサギというより飛行リスでは? という疑問が俺の脳裏に浮かんだが、誰も突っ込まなかった。
だが問題はそこではない。
コールの体つき、耳の構造、筋肉の分布、言葉の選び方──それらすべてが、明らかに“既知のウサギ族”とは異なっていることだ。単に育ち方が違うとか、品種が違うとかいうレベルではなく、種として一段階“先に進んでいる”気配があった。
ルナはずっと黙っていたが、ぽつりと呟いた。
「やっぱ……森ってやばいわ」
その一言が、妙に説得力を持っていた。
さらに静寂を切り裂くように、もうひとつの足音がやってきた。
森から現れたのは狼だった──正確には、狼型の獣人。だがこちらも、どこかが違う。毛並みは銀灰で、風にたなびくほど軽やかで、両目は左右で色が違う。服装は簡素だが整っていて、動きに無駄がない。
「初めまして。私はライク。森で学んだ知識を、街の方々と共有できればと」
喋り方は丁寧だが、緊張はしていない。むしろ、自分がどこに立っているかを正確に把握している者の言葉だった。
「我々の一族は、時間の歪みと魔素の影響の中で、少しずつ適応し、変化しました」
「つまり進化?」
「その表現が、最も簡潔かもしれません」
俺とルナは同時に「わあ……」と声を漏らした。
その夜、街は騒然となった。
広場の掲示板には、早速こう書かれていた。
「進化ウサギ来る」「知的狼族現る」「森の人たち、レベルが違った」
そして翌朝には、「滑空技術講座開催決定」「森式生態哲学入門」「耳の分岐と聴覚の進化」などのチラシが並び始め、街全体がちょっとした進化祭りのような様相を呈していた。
あっという間に、コールとライクは“教え手”として扱われ、彼らの語る森の知識は宝物のように受け入れられていった。
人は本来、“異なるもの”を警戒する生き物だと思っていたが、この街では“異なるもの”こそ面白く、学ぶ価値があると判断されるらしい。
俺は空を見上げ、耳を澄ませた。
森の奥から吹いてくる風は、どこか未来の音が混じっていた。