9話
短くなっていた眠りは、次第に長くなってきていた。眠るたびに、夢を見る。
両親の死を魔脈を通じて感じ取った雨の日。
殺さなければ殺されると、はじめて人間を剣で殺した戦場。
人間の兵器で蹂躙される街。
止める同胞を振り払って単騎で城に乗り込んだあの夜。
同胞たちの灰を、雪山の山頂で風に流して見送った朝。
すべてがそこにあるように思い出され、目覚めはいつも最悪だった。夢と現実の境が曖昧になり、頼りにしていた感覚も、今では人間並みに鈍い。
アルトが先に起きていても、野営の片付けを始めていても、目を覚まさない日が増えた。
あれから、彼は格段に口数が減っている。私たちの旅の終点はどこなのだろう。少なくとも、目的地のひとつであるはずの南の森は、もう目の前だった。
雪に覆われた景色の中に、唐突に濃緑の森が現れる。見知らぬ者からすれば、異様とも言えるこの光景。私も、弟の件ではじめて訪れたときには息を吞んだ。
「ここが南の森……」
彼も、私の後ろで感嘆の声を漏らしている。手袋を外し、振り返る。彼に対する奇妙な信頼を抱いていた。
「森に入るのは、お前にとっては危険しかない。ここで旅を終わりにしてもいい。どうする」
何と答えるのか、わかっていて、こう尋ねるのは卑怯だ。私は、どうしたいのだろう。それでも、ここで彼を引かせてしまえば、彼が死を選ぶ気がした。彼が目を眇める。
「終わりなんて、どこにあるんだ」
この旅に。そう、自嘲するように零す。彼の感情の行き先を失くしたのは私だ。右の手袋を外させて、その手を取る。
「森は魔力で満ちていて、気を抜いたら同化しかねない。私の魔力を通しておいてやるから、絶対に離すなよ」
雪の無い道に一歩立ち入った瞬間、身を莫大な魔力が包む。世界の中で、己がどれほど矮小な存在であるのかを自覚させられる。
輪郭が揺らいで、溶け込んでしまいたくなる衝動が絶え間なく押し寄せる。彼はコルヴァの血と人間の血と半分ずつ。私よりも影響を受けているかもしれない。
「大丈夫か。気を抜いたら持ってかれる」
彼の茫洋とした目に意思が戻ってくる。繋げた手から伝わる脈が、俄かに速まる。
「危なかった。身を委ねたくなって、気が遠のいて……」
じわりと合わせた掌に熱が篭って、少し痛いほどに握り込まれる。こうしている間にも、次々と圧倒的な力が襲う。先を急がなければならない。
鬱蒼として、光の少ない深緑の中を進む。生命の息吹があってなお静謐を守る森は、言い知れぬ恐怖を呼ぶ。おかしい。以前は森に分け入ってすぐ従狼たちが現れたのに。ただ足を進める。
ふと、背の高い木々の天井の隙間から、陽光の差す空白が現れた。
「シルヴァの子。今度はコルヴァと人間の合いの子なの」
糸が解けるように姿を見せたのは、まさしくこの森の番人だった。従狼たちを統べるイェルヴァの遺志。
「違う。この男はただの連れだ」
彼女は鼻を鳴らすと、ゆったりと四肢を折って臥せた。そうしてはじめて、見上げずとも彼女の顔を見られるようになる。
「シノはどうしたの。あの子はここまでついてくる健気な子でしょうに」
口の中が苦い。やはり、あれは魔脈をも狂わせる存在してはならない術だった。
「人間に殺された。厄介な錬金魔術とやらだった」
シノたちとは違う、金の毛並みが大きく上下する。陽光を浴びて輝く毛並みは現実離れしている。
「魔脈から喪われた感覚がしないのに。どうして、狼人も人間も持ち得た力を殺生に使うのでしょうね……イェルヴァの分際で、と思わないでちょうだいね」
目を閉じて、長く考えているようだった。彼女は、何か沙汰を下す前に熟考するらしいと前回知った。見つめていれば、繋いだ手を引かれる。
「何か会話しているのはわかるのに、認識できない。きみにしか聞こえないように話してるのか」
顔を寄せて囁く彼は、本気で言っているようだった。意図がわからないままに否定をすれば、番人の目が開いて、呆れたように私を捉える。
「ただでさえ感受性の低いコルヴァが半分で、聞こえるはずがないと言ってやりなさい。姿が見えるだけ上々よ」
そのまま彼に伝えるのは何故だか憚られて、もう少し違う言葉で伝えた。アルトに流れる血が半々であるせいで、出来不出来が定まる事実は、彼を傷つける気がした。しばらくして、彼女が小さく笑う。
「どうして連れてきたのかと思ったけれど、その子を伴侶に選んだのね」
酷い勘違いだ。思わず眉に力が入る。
「まさか。彼は私の死の見届け人のようなものだ。前回のように難しいことを頼みに来たわけじゃない。ただ、今の状態とどれくらい持つのかを教えてほしい」
「そう。言葉を選ばずに言えば、長くない。ひと月がせいぜいね。心石が不安定なうえに、割れかけているから。今既に耳も鼻も利いていないでしょう」
死期が近寄ってきているのは気付いていたが、想像していたよりもずっと近い。また、溶け込みたくなるような衝動が襲ってくる。
「イェルヴァのことを覚えてくれている者がいてくれて、わたしたち嬉しかったの。わたしたちは肉体を二度と取り戻せない。灰になって、風に乗って、魔脈に吞み込まれて、世界に溶け込む、なんてこともできない」
歌うように彼女は続ける。
「シルヴァの子。あなたたちには時間がある。過去には戻れない。過去は変えられない。それでも、時間と精神を繋ぐ肉体がある限り、未来を変えることはできるわ」
永久に肉体を失い、他の狼人のように世界に溶け込めなくなった彼女の言葉はもっともだ。彼女は確固たる存在だが、他の一族の従狼たちは意識が交じり合って、曖昧に存在している。
もう去った神の、シルヴァへ下る命だけを心に。
「ひと月で変わるほどの確執じゃない。何かを守るためには必ず代償が伴う。私の場合、彼との関係が代償だった」
息を吐くように、彼女がまた笑う。
「伴侶の儀はもう喪われたのね。その子は合いの子だけれど、心石があるから結べるはずよ」
滔々と語られる遥か昔の儀は、聞いたこともない代物だった。俄かには信じ難かったが、戦いの激しい時期に最も多く結ばれたと聞いて合点がいった。忽然と現れた選択肢は、私の心を惑わせるものだった。
「母親かしら。随分と手の込んだ術を掛けられているのね」
彼女はアルトを見つめて、嘆息した。心石があるということは、耳と尾は隠されていたのだろう。死してなお続く術は、彼が愛されていた証拠だった。
彼の母は、息子たちが人間として生きられるように願った。私の命を長らえたとしても、彼と生きていくことができるはずもない。旧い儀を頭から振り払う。
森を抜けるまでは、金の毛並みの従狼たちが付き従い、いつまでも私たちを見ていた。