6話
シィロの街は戦前と同じく、眠らぬ街だった。
境壁で吹き込む風が遮られるために、こんな夜でも酒場の喧騒がそこかしこで僅かに聞こえてくる。宿を探していれば、後ろから呻き声がした。アルトが滑って転びかけたのか、奇妙な姿勢で固まっている。外の雪とはまた違う、踏み固められて水っぽくなった雪が、彼の足を取ったようだ。姿勢を立て直せないらしい彼の手を取って、肩に置く。
すまない、と謝られたが、雪に慣れない彼への配慮が足りなかった。街に着くまでも何度か戸惑わせていた。彼が狼人でないことがもどかしく思えて、酷く恥ずかしくなる。
彼と私が違うのは当然だ。彼の半分は人間なのだから。
「私にはお前との違いがわからない。悪いが、お前が通れない道があれば先に言ってくれ」
怪訝な顔をされた。しばらく歩いて見つけた宿の女主人と、城門のときと同じ問答をして部屋を借りた。外からの旅人は依然少ないらしく、商人が時たまやってくる程度だという。
修復作業で街へ来ていた私を見ていた女主人が、宿代を取らないなどと言い出した時には少し困った。どうしてもと言う彼女との妥協案は一室の壊れた空調を直すことだった。幾分渋ってから口にしたそれは、境壁が崩壊した際に何故か壊れたそうだ。大方魔力装置が関わっているに違いない。
彼女の家族が暮らす部屋の床下にあったそれは、成程古い機構で直すには壊れるか壊れないかという程出力を高めた魔力をぶつけるくらいしかなさそうだ。
「これはなかなか……少し強く魔力を通してみよう」
部屋からついてきたアルトと、主人と彼女の従狼に万が一にも破片が飛ばぬよう、上衣を掛けてから魔力をぶつける。がち、と嵌まる感覚がして、滑らかに魔力が通るのを感じた。
「恐らく直った……境壁の崩壊の影響で詰まりを起こしていたようだ」
「ありがとうございます。もうこんな古いの、直らないかと……」
主人は目の縁に涙を湛えている。きっと理由があってこの空調を使っていたのだろう。棚の上に置かれた写真立てのなか、彼女の横で微笑む初老の男。目尻の深い笑い皺に見覚えがあった。
疲れが出ているのか、こういう時は碌な思考にならない。主人の言う通り朝にすればよかった。
後悔は先に立たない。なんとか繕って公子らしく安心させるように微笑む。笑えているだろうか。
「他の日用装置に通す程度の魔力を、週に一度。そうすればきっと長く使える」
主人が頷く。アルトがじっと私を見ていたのが不思議だった。
湯を浴びられる宿だったのがありがたかった。魔力を通して湯を温める型だと知るとアルトは遠慮したが、せっかくなのだからと押し込んだ。
寒さに慣れない彼の体を温めてやらねばならない。ちょうどいい温度になるように気を付けながら魔力を通す。毛先から滴る雫が邪魔だった。
「……ありがとう」
湯冷めしないように、布を渡す。寝台に腰かける彼はただ黙って髪を拭っている。ふいに手が止まった。
「きみは変わってしまったと思っていた。でも、きみは……俺は、何かを間違えているのか」
間違えてなんかいない、と。そう言うのは簡単だった。しかし、今ではそれが利己的なようにも思えて口に出せなかった。
「今更、迷ってどうする」
敢えて嘲るように吐き捨てる。そうだ。私も迷って、どうする。目を合わせても繕える自信がなかった。今夜は、だめだ。
「どうしてジンを……彼は何かしたのか」
彼の聡さが、今は厭わしかった。部屋の燈を消して、彼が視界に入らないように横になる。
「お前の思うことがすべてだ。私は何も言いたくないし、言ったところで何にもならない」
寝首でも掻くといい。そう呟けば、彼は低く唸った。
「どうしてそう有耶無耶にしようとするんだ。俺は、真実を知る資格も無いのか」
まったくその通りだった。もう彼の中であの男に対する疑念が形を持っているのは明らかで、私がするべきことは答え合わせをしてやることなのだろう。そうしたら、きっと彼は私を完全に憎めなくなってしまうだろうし、殺そうとしたことさえも、後悔の一端になってしまう。
最善がわからなくなってきてしまった。
たぶん、私はずっと、間違えている。両国に横たわるすべてを以てしても、酌量が効かないくらいに。
泣いてしまえたら良かった。ただ、暗がりの何も無い壁を見つめて、上掛けを引き寄せた。
「俺は、きみを殺したくなんかない」
私と彼は、違う。殺しなど、したことがない彼と、数え切れないほどの命を手にかけた私は、あまりにも違う。感情で命を奪うことなどないし、したくもないはずだった。苦渋の選択をさせたのも、間違いだと気付かせようとしているのも、私だった。
今夜は、だめだ。
シルヴァの城近くで、無理にでも。いや、自分で幕を下ろしておけば良かったのかもしれない。
全部間違いだった。どうすれば良かったのか、わからない。喉の奥が引き攣る。
背後で布が擦れる音がして、置き時計の針の音だけが残った。