5話
幾度もの夜と朝を繰り返した。
相も変わらず寝覚めは悪く、夜毎にあの惨劇を思い出す。乾いた会話と、彼の敵意を煽るためだけの応酬を重ね、勝手にその重みに潰されていく。
次第に、長く眠ることすら難しくなってきていた。空は重たい鈍色で、きっと、この後雪が降る。
「ここ数日眠れていないんじゃないか」
足を止めて振り返れば、彼は目を眇めている。十年前にはなかった剣呑さが、痛かった。玉に瑕を付けて割ってまで鋭くしたのは自分だというのに、変な話だ。見ていられなくて、顔を逸らした。
「きっと、今夜の雪はひどい」
シィロの街へ向かおう、と手を差し出す。一層口を引き結んだ彼が、半歩踏み出して手を乗せる。瞼の裏に、いつかの姿を思い描く。今度は尾も。私と同じ灰の毛並みのアルトが仕上がる。
揃いの色合いを持つ彼を見ると、落ち着かない心地になる。
「東の……コルヴァのいる方までは我慢してくれ。従狼もいないのに黒い毛並みでは……」
戦争も終わったばかりなのに、と言おうとして、やめた。東の島のコルヴァの娘がエストリンの妃になっていたと知ったときの騒ぎを、ましてや彼女が殺害された事件をきっかけとして狼人と人間だけではなく、シルヴァとコルヴァの溝が深まったことを彼は知らない。族長一族とは関係のないコルヴァの民でさえ、シルヴァの街には近づかないようになった。彼の母が、すべての分断の元凶と思う者は少なくない。
身分が明らかになることを避けなくてはならないし、彼に悟らせるのも避けたい。
余計なことを言わなければよかった。
「私と共にいるなんて、と無駄な詮索をされかねない。いいか、お前はこれから大公家の血縁の旅人だ」
「それで通用するのか。シルヴァの民は皆従狼を連れているのに」
きっと従狼を喪っても生きられるなど、大公家の者くらいだ。彼が私たちと従狼の関係について明るくないのはわかっている。
「城下で通用したのはなぜだと思う。皆、私と同じ状況だと思って触れなかったんだ」
城下と勝手が違うことと、私の状況が伝わっていないことを織り込んだとしても、聞かれたときに答えれば問題ないはずだ。口を開いて空気を食んだ彼を急かす。
既に雪が舞い始めていた。
雪煙で視界が危うくなり、夜も深くなってきた頃。
シィロの城門はまだ開いていた。皆、帰らぬ者を未だ待っている。私が守れなかった者たちを。帰るところを示すように煌々と灯された燈。照らされた石畳が、硬い音を響かせた。
私たちに気付いた門番が駆け寄ってくる。
「レノウ様、どうしてこちらへ」
彼の顔を覚えていた。志願して私たちの陽動隊に加わったが、従狼が重傷を負い、一年で隊を外れた青年だ。従狼を見れば、共に門番を務めるほどに回復しているようだ。
「南の森に向かう途中だ。今夜は荒れているから……伝令もなく、急にすまない」
「そんな、とんでもない、私からシィロの方へ伝令を飛ばしましょうか」
視線の泳ぐ青年は、私の従狼を探しているらしい。加えて、見知らぬ同行者への警戒も見える。
「いや、構わない。どこかの宿に泊まらせてもらう……ああ、境壁が少し弱まっているな」
耳に付いた雪の冷たさが染みた。シルヴァの城下は切り立った峰のために何の障壁も無いが、シィロは城壁と魔力の境壁で守られた要塞都市だった。エストリンの猛攻で一部が崩壊し、戦後に修復作業をしたばかりだ。コルヴァの港街とシルヴァの城下を結ぶここは、再びエストリンの標的になりかねない。境壁の装置を検めないといけないかもしれない。
私の足が装置の方へ向かうのを、青年が止める。
「装置に不備はありません、ただ、魔力の供給担当の出力がレノウ様には足らず……」
猶更、問題だった。修復作業時に私が適当に見積もった供給の交代間隔を律儀に守っていたのだろう。装置前の鍵を開錠すると、言う通り充填量が足りていないらしい。
耳を拭って、装置に手をかざす。重たく空気が揺れた。
「供給の間隔はもっと狭めた方がいいだろう。もし出力が皆今回の者と同じようなら……そうだな、日に四回程だな」
明日、責任者にも話を通しておかなくてはならない。少し思考を飛ばしていれば、青年は返事もそぞろにどうにも恐縮した様子でアルトを窺っている。僅かに人間の匂いがするのも警戒材料だろう。
すっかり彼の説明を忘れていた。
「彼は私の血縁だ。詳しくは言えないが、私が責任を持って彼を監督する」
街に入るのは私たちふたりだ、と言えば、いよいよ青年は従狼について疑問に思ったようだ。
「おふたりの従狼は街へ入らないのですか」
純粋に従狼を気遣う目が眩しかった。従狼はシルヴァの民にとって、隣にいるのが当たり前だ。私にとっても当たり前だった。
「いないんだ」
思った以上に硬い声が出て、沈黙が落ちる。事情を知らぬ者からこうして聞かれるのは初めてで、応えたらしい。青年は自分の発言を失言と思ったのか、顔色を失くしている。そんなつもりではなかったのに。
「失礼しました。では、おふたりのシィロでの時間が良きものとなりますように」
可哀想なほどに色の無い顔が伏せられる。これ以上声をかけても、青年の顔色が良くなることはなさそうだ。アルトを見やって促す。
「ありがとう。君の従狼が回復した姿を見られて良かった」
青年が勢い良く顔を上げて目を見開いたが、気付かなかったふりをして街の中へ足を進めた。