4話
かつてないほどに、静けさに満ちた旅路だった。
私と彼の間に温度のある会話はどこにもなかった。南を目指し、白銀の荒野を進む。この険しい土地が神の祝福に満ちているなど、馬鹿げた話だった。
遠い昔の狼人への迫害が産んだ更地。心石の動力たる魔力が豊富な地であることは間違いないが、心石を持たず魔力など扱えない人間には険しさだけが降りかかる地だ。草木もまばらで、人間の夢見る豊穣などからは程遠い。
私たちの安寧の地を、何度脅かせば気が済むのだろう。与太でしかない御伽話を信じた人間共。強く噛み合った歯が嫌な音を立てる。わかっている。誰が悪いという話ではないのだ。人間と狼人は共に暮らすことができない。持たぬものが多い短命な人間は、私たちを卑怯だと言い出す。違ういきものなのに、似た姿に産まれたばかりに、人間たちは私たちから奪おうとする。奪おうとすれば失うだけだと、短命な人間たちは理解できない。
きっと、今回で終わりではない。百年後、二百年後、何度だって繰り返すだろう。
幾分風が冷たくなってきた。澄んだ夜の匂いが、激動の日々の記憶を運ぶ。火を囲んだ仲間は、もうずっと前に。ぱち、と火の粉が爆ぜた。燃える薪は、赤い。それに照らされる彼は、ただ炎を見つめている。
自分が恐ろしかった。人の命に優劣などないのに、己の中で簡単に序列付けてしまっている。彼の顔からは、何の感情も汲み取ることができない。傷を刻まれても尚損なわれない端正な顔立ちは、無機質にさえ見える。
「俺は、どうしたらいい」
アルトが視線を動かさぬまま、呟く。炎が揺れる。私にも、正しい選択などわからない。なぜ、彼がこんなに躊躇しているのか、正直わからない。
「そんなのお前が選べば、正解になるんだ。思うようにすればいい」
「きみは何を隠している」
じわりと、胸のあたりから冷たい何かが染みだす。何故か、責められているようで落ち着かない心地になる。
「きみがジンを無残に殺したことを忘れたことはない。でも、シルヴァでの療養生活と、きみがずっと送ってくれていた手紙を忘れることができないのも事実だ」
支えだったのに、といくらか落とされた声が囁く。込められた湿度に何を言うべきか、わからなかった。彼がそこまで深く私へ心を傾けていたと、知らなかった。
確かに幼少期の一年半を共にしたが、その後の四年間は手紙のやり取りしかしていない。そして、さらにその四年後には最悪の日に再会したのに。
「なぜよりによって、ジンを……俺を裏切るような真似をしたのか。気が狂って凶行に走ったとも思えなくなった」
黒髪の向こうで、また黒の瞳が揺れている。どこまでも続くような夜の闇が、彼を飲み込んでしまいそうだ。多分、私は出会った時から彼に心を傾けていたように思う。だから、私は、彼に誠実でありたかった。
きっと、あの男の所業と正体を伝えることが誠実なのだろう。それでも、あの男はもう灰になった。伝えれば、今度は未だ生きる私が彼の心の澱になる。
私も灰になってしまえば、何も遺恨は残らないはずだ。冷たい空気を胸一杯に吸い込んで、少しだけ吐き出した。
「気が狂ったんだ。シノは魂のかけらだった。魂のかけらを喪って正気を保てると思うか」
城に火を放って一国の王と王妃を手にかける行為なんて、狂気以外の何物でもない。
あの時の私には、シルヴァを守ることと民を守ることしか頭に無かった。シノを喪ったことで均衡を崩した精神が、箍が外れた魔力の暴走に拍車をかけた。
それでも、あの狂気は私の選択だ。犠牲になった民、蹂躙された町、帰ってこなかった両親、腕の中で死んだシノ。それらすべてと、これから手にかける命とを、天秤にかけた結果だ。選択の末に、彼の父も、従者も、殺した。彼の体と心に消えない傷を刻んだ。あの男は、彼が物心つかぬうちから側仕えで、きっと私にとってのシノのような存在だったことは想像に難くない。
手紙から伝わる従者への信頼はいつも篤かった。あの男が本心からアルトに尽くしていたのか、ベラの命で下心故に仕えていたのか、どちらかは知らない。ただ、シノを殺したことだけが事実だ。
また、火の粉が爆ぜる。
「きみが俺に何を望んでいるのか、わからない」
私が信じていたことが揺らぐような、掠れた声。
その夜、二度と私たちの視線が交わることは無かった。