2話
この見知らぬ旅人に一様に怪訝な視線を向けても、大抵の相手は私の客人であることで警戒を解いた。
俯きがちで、脱ぐ素振りを見せない外套と、その下にエストリンの衣服を纏う彼。寧ろ、口外できぬ事情があると解釈して、不問の配慮さえ見せてくれた。
昨日の厚い雪に重なり積もってゆく雪は、この地の天候に不慣れなアルトの足を何度か惑わせたものの、想定していたよりも遥かに早く城内に辿り着いた。
今や大公の部屋の目の前だ。道中、言いつけ通り一言も発さないアルトの視線を背に弟のことを考えていた。何も告げず旅に出れば、あの子は私が生きている限り探し続けてしまうだろう。旅の目的地とアルトを同行者として紹介すれば、何も言わぬより心穏やかに過ごせるだろうか。
扉を軽く叩いて返事を待つ。まもなく中から声がする。少し警戒の乗る声色だ。私がいるとはいえ、急な来訪者に疑問を抱くのも仕方ない。ライルの従狼も足元で耳を立たせている。
「夜半に申し訳ない、ライル。突然で悪いが、明日には南の深い森を目指してここを発つ。彼は同行者だ」
言うと同時に術を解いて、怪しい者じゃない、と続けて紹介をしようとしたのに、アルトが勝手に外套を脱いで顔を晒す。私がどう身分について説明するつもりだったのかも知らず、あの夜生まれた確執について話しているかもしれないというのに、大胆なことだ。
私と彼の間の確執など知らない弟はひどく狼狽し、声を僅かに上擦らせる。
「アルト殿下、久方ぶりにお会いする。何も連絡の類が無かったものだから、何の用意もできず申し訳ない。経緯だけでも教えていただけるだろうか」
「もう向こうでの身分はありません」
どうか気負わずに、と続ける。良く利くはずの耳を疑った。ライルも同様で、そういうわけには、と言いつつ腰を落ち着けるよう提案してくる。アルトは私がどうするかを窺っている。
長居するつもりはなかったが、ライルを納得させるために来たのだから仕方ない。重たい沈黙が一瞬私たちの間に落ちて、沈んでいった。
ライルは聡い子だから、私とアルトの関係の変容を嗅ぎ取ってしまったのだろう。明らかに不自然に伸ばされた髪と、それに隠されたものの正体について考えあぐねているようだ。
膝の上で手が組まれ、右の人差し指が揺れている。悩んでいる時のライルの癖だ。
「僕もただのライルとして話すことでどうかな、アルト様。そう……あなたがこちらで過ごしていた頃のように」
「わかった。しかし事の経緯は俺ではなく……」
二人分の視線が私に刺さる。言わずとも、アルトはこの弟を納得させるために来たと理解してくれたらしい。私の口からの説明でなければライルは信じることがない。
弟は幼いころからそうだった。その記憶を彼も持っていたのだろう。たとえ嘘であろうと、私の言葉であれば信じることを。
「アルトと私が、もう何年も手紙のやり取りをしていたのは知っているだろう。私が旅に出るつもりだと言ったら、同行を申し出てくれた。急になったのは私が時期を伝えなかったせいだ。今すぐ出ると思って急いで来てしまったらしい」
「文通を再開したなんて聞いてないし、僕はレノウが旅に出るなんて……そんなの」
「もう何でも話す年頃じゃない。だから今許可をもらいに来たんだ」
ライルの眉根が寄せられて、薄紫の瞳は瞼に隠れてしまった。一度大きく肩を上下させて、また人差し指が宙を彷徨う。
ずっと、戦争が終わってから、弟を悩ませている。それでも、私の罪悪も、悪夢も、この子は知らなくていい。守るために壊したものの姿は見せたくなかった。嘘がとても滑らかに紡がれる。
「彼には東の島に伝手があるだろう。シノを喪ったことで入った心石のひびの治療法が見つかるかもしれないんだ」
幻想にすらならない嘘だ。それなのに、いつも私を信じてくれるライルは神妙に頷いている。
「南の深い森は従狼の一族も住んでいるし、東の島にも近いコウィントの街なら療養に最適だ。私もすぐに行くつもりではなかったが、こうして彼が来てくれたし、雪深くなる前に発ちたいと思って……それに、アルトは私の唯一の救いだから」
終わらせてくれる存在として。最後は心のうちに留めて、依然難しい顔をする弟に、お願いだ、と駄目押しをする。優しい子だから、きっと自分の中で妥協点を見つけてくれる。
「レノウが決めたことなら……アルト様もレノウに付き添う覚悟がおありのようだし、二人の間にあるものを僕は知らないし……」
少し言い淀んで、視線が膝に落とされてしまう。
「ただ……僕個人の感情で言うなら、ここを離れてほしくないし、シルヴァのみんなもレノウに離れてほしくないはずだと、そう、思うよ」
ひたむきに私を案じてくれる弟に、喉が熱くなる。吐露することはもう許される身じゃない。薄く笑みを浮かべることしかできなくて、情けない。
「仕事も、大公家の一員としての責任も、すべてライルに押し付けることになってしまうな。許してくれるか」
「そんな言い方やめてよ……四年前から戦争が終わるまで、すべてがレノウに懸かってたんだから、今度は僕の番だよ」
眉を下げて一言一言丁寧に紡ぐ弟に罪悪感が募る。私の振る舞いのすべてが弟を曇らせるのも、嫌だった。
ぎこちなさを抱えながらも、ぽつぽつと話し込んでいるうちに燈の魔力が切れ、同時にやわらかな沈黙が訪れる。
アルトの振る舞いが今後のための演技とはわかっていても、戦争のきな臭ささえ無かった暖かい日々を思い出してしまう。自分の図々しさが苛立たしかった。 客室を用意するべきじゃないかと渋る弟を、エストリンの人間がいるとややこしくなると丸め込む。
他人の気配で眠れないのではないかと考えたのは杞憂で、とろとろと訪れた眠気に身を任せた。