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銀狼の祈り  作者: 秋瀬
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1話

 何もかも、冷たかった。

 

 夜の足音が迫る薄闇も、濡羽の瞳が湛えた憎悪も、首筋に当てられた短剣の刃先も。そのまま右手を突き出せば願いが果たされるのに、彼は動こうともしない。

 彼の荒い息が焦燥を滲ませて、ただ重ねられていく。瞬きをすれば、遂に彼の右手は下ろされた。手放された短剣が雪に沈む。


「アルト、随分な挨拶だな」


 拾い上げた短剣をもう一度握らせる。取り落とさないように、固く。彼は信じられないものでも見たように、私を見下ろした。彼の右の顔を覆い隠すほど垂れた髪を、風が揺らす。それを払ってやれば、横たわるのは引き攣れた酷い傷だった。


 エストリン王国のシルヴァ公国への侵攻を終わらせた夜。エストリンの城を落としたあの夜。彼が自らの従者を庇ってできた傷だ。彼の困惑のまなざしが憎しみに染め上げられた瞬間を、今でも鮮明に思い出せる。

 かかってくる兵を焼き払い、国王夫妻を剣の血露にしたあの落城は、禁術に溺れた王妃ベラの暴走として処理された。それでも、私にとっては幾度も繰り返す悪夢だ。必ず殺してやる、と従者の亡骸を抱いて呻いた彼を覚えている。

 どうか、その約束を果たしてほしかった。刀身が冷えるほどに覚悟を決めるのに時間が必要でも、目の縁に張り詰めた雫が寒さのせいじゃないとしても。


「できない。だめだ……きみが、憎いのに、俺には、できない……」


 声を震わせる彼を、抱きしめてやれたら良かった。私にはその資格がない。彼の父王と、従者。彼にとって、私はその両者を殺した仇だった。彼の父は亡骸を傀儡にされていただけだったし、彼の母である前妃を殺した者は従者だった。

 その真実を彼は知らない。それを彼に告げるつもりもなかった。従狼を殺された私は、もう長くない。身の内で脈打つ心石は、既に割れかけている。彼にこの命の終わりを託すことこそが、私たちの関係の終止符として相応しい。

 彼はエストリンの第二王子として、私はシルヴァの公子として生を受けた。私たちにはきっと、はじめから共に歩ける道など存在しなかったのだ。

 人間である彼の国は、狼人である私の国から多くのものを奪い、私は彼の大切な者さえこの手にかけた。シルヴァ公国の地に降り注ぐ神の恩恵とやらを信じる、後ろ暗い連中がエストリン王国に跋扈していたせいかもしれない。はたまた、狼人を差別し、迫害する国に彼が狼人の血が流れる身として生まれてしまったせいかもしれない。

 原因も、解決策も、今更見つかるわけがなく、両国間にあるすべてが私たちを結ばなかったことだけが明らかだった。


「約束を忘れたのか。お前が私を終わらせてくれると言ったのに」


 できるだけ憎らしく見えるように笑みを象ったつもりが、見開かれた彼の瞳に映る私は全く笑えていなかった。狼人の血を理由に幽閉された彼にとって、変わらず自分に仕え、身を守る術を教えてくれた従者は、かけがえのない存在だっただろう。

 もう死んだ者の悪行を暴いて彼を傷つけたくなかった。もとより、危機が退いたシルヴァの政からはすでに手を引いている。大公の首飾りは、エストリンとの終戦の日、この手で弟にかけた。あの夜から季節が二つ過ぎ去って、冬が始まっていた。

 失われたものは戻らないが、少しずつ民は前を向いて歩き出している。民に平穏な暮らしを取り戻す、という私の願いはすでに果たされていた。


「もう心置きも何もない。どうしたらお前の心は決まるんだ」


 見下ろす黒い瞳が、十年前の邂逅を思い出させる。 確か、寝台の住人になっていた彼が何者かも知らずに、覗き込んだ。思えば、狼人の血を引くせいでエストリンの地は療養に適さなかったのだろう。どんな意図で両親が彼と引き合わせたのか、薄っすらとわかっていたし、その先を信じていた。

 しかし、幸福であれと誰よりも願ったはずの彼を、深く傷つけたのは他の何者でもない私だった。

 ゆるされなくていいから、償いたかった。言葉を失う彼は拠り所の無い子供のようで、遠い日の彼の言葉が唐突に再生される。


「私も約束を果たしてやる。南の街だったか。お前が見たいと言ってたのは」


 すべての民を守れず、罪無きエストリン兵の人生を奪ってきた。唾棄されるべき私の行いが、美談として賞賛されることが、嫌だった。

 彼が尾けているのは知っていて、守り切ったシルヴァの地を望むここを最期の地にするつもりだった。外交問題の火種にならないように、彼は介錯者だと記した手紙まで残して。


 また、雪がちらつきだす。今夜は旅の出立には向かないかもしれない。冷気で朱が差した彼の頬を涙が伝う。旅の終点がどこであろうと、出立は万全でなくてはならない。彼の左手を取る。


「出発は明日の朝だ。今夜は私の部屋で過ごすといい」


 シルヴァの民に見えるような彼の姿を瞼の裏に思い描く。灰の毛並みと狼の耳、蒼の瞳。外套を着ているから尾はいらないだろう。目を開けば、彼は想像した通りの姿になっている。外套から僅かに覗く服装がエストリンの様式ではあるが、旅人としては申し分ない。

 ここで終わらせてくれる気がなくとも、いずれは選択する時が来ることを信じよう。償いを果たす鍵は、この彼の手だけが握っている。彼が何かを言おうとして、レノウ、とはじめて短く名を呼ぶ。手を放して、背を向ける。

 何を聞かれても口を開くなよ、と釘を刺して、今生の別れを告げたはずの城へ再び戻った。

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