4-1 スラウ
リトワースの襲撃を受けて『清き世を迎える会』が壊滅したとき、彼らに拉致されていたエリーを救出して城まで送り届けてくれたのは、紺色の髪と眸を輝かせた少年魔術遣いだった。
彼は東方から来たという。そしてエリーに言った。
『あんたの夫は死んだ。この国の王はもういない』
それは嘘だった。
なぜなら、国王ダランは生きている。
この手紙がその証拠だ。
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『余が見捨てた妻へ
二通目の手紙である。
君は生きているだろうか。
余は生きている。
リマーディル国で起こった王都の騒動を聞いた。
余は罪深い。
アルディン近衛隊長、ダリウス男爵の三女リラの不幸を悔いている。
君を正式な王位継承者とする神託についても耳にした。
これから五年をかけて多くを学び、善き王となってほしい。
君の幸福と安全を常に願い、祈っている。』
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アルディン近衛隊長が握りしめていた一通目の手紙と同じ文字、文才のかけらも感じさせないぶつ切りの文章だ。だが、装飾のない文章がエリーの胸を打った。百の美辞麗句よりも真意と誠意が響く。
「お、王妃さま……? その手紙はいったい?」
鈍感な女官センナもさすがに不審に思ったらしい。そっとエリーの顔色を窺っている。
「懐かしい方から届いたの」
エリーは目尻に滲んだ涙を指先で拭いながら、柔らかく震える声で呟いてみせる。
「わたくしがリトワース公爵家の養女に迎えられる前、幼い日を過ごした教会の尼僧長からの手紙よ。ここ数日の混乱と王都神殿の神託を聞いて私信を寄越してくれたの」
「地方の尼僧長が? それなら伝書鳥を飛ばしたほうが早いでしょうに。鳥がいなくても配達人を雇えばあっという間に」
「伝書鳥や配達人がどれだけ高価なものかご存じないのね、王都育ちの裕福なセンナお嬢様。王国南部の貧しい教会に伝書鳥なんていないわ。王国内を縦横無尽に動く配達人だって、王妃への私信と知ればどれだけ配達料をぼることか。彼らが手紙を送るには、知り合いから知り合いへと托すしかないのよ。おまえは王都の城壁から外に出たことがあって? 辺境の民の貧困を知っていて? おまえの実家の領地がどれほどの困難を負っているか想像したことはある?」
「恐れながら王妃様、私は壁の外に出たことは一度もございません」
「ならば軽率なことは言わないことね」
「申し訳ありません」
センナが神妙な面持ちで詫びる。
少し言い過ぎた、とエリーは思った。そもそも自分が国王からの密書を故郷の教会からのものだと偽ったのが発端だ。
「ごめんなさい、言い過ぎたわ。どうか気にしないでね。わたくしったら、つい、言いたくもないことを言ってしまった」
「この混乱の日々を生きてらっしゃるのですから当然です。このセンナでよければどんな八つ当たりも受けてさしあげますから、どうぞ、ご存分に。この豊満な腹は伊達ではありませんよ」
センナは気を取り直しただけでなく逆にエリーを慰め、自身のふくよかな腹をぽーんと叩いてみせた。
この表情豊かな朗らかさがセンナの強みだ。
「センナ、頼みたいことがあるの」
「どうぞ何なりと」
「大学士のもとに行って、少年時代の国王陛下が自筆で記した書物を借りてきてちょうだい。文字の練習をした帳面や、ちょっとした作文や、神学書を書き写した巻物でもいい。陛下が遠征に出てから六年、彼が旅立つ前の幼い日々に残した文字を読んでみたい」
「……ど、どうなさいました。急に」
「知りたくなったの。わたくしは自分の夫について何も知らないことに気づいたのよ、まず彼がどんな王子様だったのか――どんな子どもだったのか。ただの悪趣味よ」
「ならば大学士にお伺いを立てると事が大きくなりましょう。私が役人に声をかけてこっそり借りて参りますわ。異母弟が図書庫で古い文献整理をしていますから」
「助かるわ! すぐにお願い」
「はい、すぐに。しばしお待ちを」
そう言って丸い背中を向けて駆け出そうとしたセンナが、くるりと振り返る。
「王妃様」
「えっ、何」
「嘘はいけませんよ」
エリーはどきりとした。
「このセンナはわかっております王妃様。妻というものは、夫の不在には何かと心がざわめくものでございます。そんなときには夫の幼き日々を感じるものと魔力者の血を呪物として【愛する者よわが胸に帰れ】のおまじないをかけるのでございましょう? それは毛髪や自筆の文字が最適ですもの、ああ、みなまで言わなくて結構、センナはよおく存じておりますッ」
慌ただしくそう告げると、センナは美しくよく透る声で恋歌を歌いながら退出していった。
エリーは思わず苦笑した。
「【愛する者よわが胸に帰れ】、か……」
彼女が国王の自筆文書を求めたのは、恋まじないの呪物にするためではない。彼女の手元にある二通の拙い手紙の文字が、本当に彼女の夫のものなのか確認するためだった。
だが甘い空想に浸っている暇はない。
「おまえたち、少しだけ外してちょうだい。部屋の前で待っていて」
エリーの執務中も無言で警護をしている神殿尼僧兵ふたりに、彼女は小声で命じた。ふたりの兵に拒絶の色が浮かぶがエリーは「大丈夫だから」と告げて外に出し、扉には内側から閂をした。
これでようやく、ひとりきりだ。
エリーは執務室の机の下に隠していた短剣を取り出した。
躊躇する暇はない。
その刃を首筋に当て、喉を掻き切ろうと構え――
「おい、何やってんだ!」
突然、虚空から姿を現した少年が飛び出してエリーの腕を掴み、彼女を取り押さえて短剣を奪った。
「きゃっ」
「キャーじゃねえよ! まったく!」
床に落ちた短剣を少年が遠くに蹴飛ばす。エリーはほんの少し抵抗した。少年は「ばか!」と小声でわめいて彼女の頭を掴んだ。
「ちょっと待てよ、どうしていきなり死のうとした? 意味わかんねえ、意味わかんねえし!」
間違いない。
彼はあの日エリーを助けてくれた東方の少年魔術遣いだった。
動揺した声も、エリーの頭を握りしめて覗き込んでいる紺色の眸も、嘘偽りがない。
だからエリーはようやく安心した。
「だってこうでもしなければ、この部屋に潜んでいたおまえは姿を顕さないでしょう?」
「なっ……! おれがいることに気づいていたのか」
少年は脱力した。
みるみる表情が幼くなっていく。その大きな目に涙さえ浮かんでいる。少々やりすぎたかなとエリーは反省したが、それを口に出しては意味がない。
「ここは王妃の執務室よ。おまえはどうしてこんなところに隠れているの」
「ちゃんとあんたのもとに国王からの手紙が届くか心配だったから。王都神殿の神託からひと月、東方に身を隠しておられる陛下のもとにも噂は届いた。陛下はあんたを心配していたから」
「陛下の手紙で間違いないのね? 念のために筆跡を確認するけれど……それにしても、もっと他の方法を思いつかなかったの?」
「姿を隠していたことか? こうでもしなきゃあんたの側にぴたりとくっついてる屈強な尼僧兵に刺し殺される」
「そういう問題ではなくて! いつからわたくしの側にいたのよ!」
「それは、あの、昨日の、夜、だったかな……」
「わたくしの着替えも寝顔も見たのね!?」
大声で怒鳴りそうになってエリーは堪えた。
扉の外ではその尼僧兵ふたりが聞き耳を立てているはずだ。この気配に気づかれてはいけない。
「やっぱりこの手紙を回りくどい方法で届けたのはおまえだったのね」
「すまない。陛下がそれをお望みだった」
その言葉の温度をエリーは測っている。
ひとが吐く言葉には温度があることを彼女に教えたのもリトワースだった。人間は必ず嘘をつく。だが言葉のもつ温度はごまかせない。言葉の意味ではなくその温度に真実がある。それは体温と同じだ。……
少年魔術遣いの口から語られる国王の様子は平温だ。
そこに虚偽の熱さは感じられない。
「どうやら、おまえと陛下が昵懇であることは嘘ではないようね」
「ようやく信頼を得たようで嬉しいね」
少年は厭味の口調でそう返した。生意気な子、とエリーは口を尖らせる。だがすぐに表情を改め、美しい緑の眸で少年を見つめた。
「おまえのおかげで、陛下が東方の何処かで生きておられることがわかった。おまえはわたくしと陛下をつなぐたった一本の細い糸ね」
「まあ、そうとも言える」
少年はふと頬を赤らめた。
そんな幼い表情が年相応で可愛らしい。
「わたくしはおまえを名で呼びたい。名前をきかせてちょうだい」
だが少年はあっさりと、そして明確に拒否した。
「紺碧の魔術遣いは名を明かさない。名は契約主によって与えられた大切なものだから」
「ならばわたくしと契約して。わたくしが名前をつけてあげる」
「だめだ。おれはもう名を持っている。あんたには明かせない名がある」
「……主人がいるのね。それってもしかして」
「この国の王、ダラン陛下だ」
エリーは思わず「嗚呼」と感嘆した。
悲しいような、嬉しいような、不思議な感覚で胸がいっぱいになった。見知らぬ夫と結婚して、はじめて彼の「温度」を感じた気がした。
「おまえはわたしに、彼はもう亡くなったと嘘をついたわね。あれはどうして?」
「それはごめん謝る。国王はあんたに夫はもう死んだものだと思ってほしかったんだ。でもあれから陛下は、あんたに玉座を譲った者の覚悟として遠くから見守ろうと決めたんだ」
「……」
「それが、王妃を見捨てた元国王の、せいいっぱいの償いなんだ、って」
もう堪えられなかった。
エリーは両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。
もう泣かないと決めたはずだった。逃げずに闘うしかないと思っていた。自分の宿命を受け入れるしかないと覚悟していた。
玉座を護る。立派な国王代理になる。そして義父リトワース公爵に決して屈さない。心ではそう決めていても不安でいっぱいだった。自分には無理だとわかっていた。目を閉じればアルディン近衛隊長の死体が、女官アナの死体が、刑場で首を刎ねられた灰装束のリラの生首が、そして王都神殿で神々の穴に身を投げた聖女の全裸が、次々と浮かんでエリーを苛むのだ。
そのすべてが義父リトワースのせいだ。
リトワースを憎み、復讐し、殺せばすべてがすむ。
(――けれど、それなのに)
それなのに、玉座についた瞬間、整列して傅く貴族達の姿を見おろしたとき、エリーはこれまで感じたことのない恐怖でいっぱいになってしまった。
(――どうしてわたくしは、こんなふうになるまで、見知らぬ夫のことやまつりごとのことを何一つ知ろうとしなかったかしら)
心細かった。
「本当に、陛下は、遠くからわたくしを見守ってくださるの?」
「陛下は遠征途上で戴冠したから玉座に座ったことがない。そんな自分にエリーを導く資格はない、このまま身を隠して機が熟すまで待つと言っていた。でも、」
「でも?」
「……あんたが。エリーが、負けていないから。だから」
だから、と呼吸をおいて少年魔術遣いは続けた。
「だから、希望を捨てないことにしたんだって。彼は二度と王都には戻らないけれど、この国への希望は捨てないんだって」
希望。
それはなんと美しい言葉だろう。
そしてふんわりと実体のない理想だろう。
憤然とした。
エリーは憤然と頬を膨らませ、執務室の机に駆け戻る。
「ちょっ、王妃?」
「手紙を書くわ。陛下に返事を書くからそこで待っていて。すぐに済むから」
「早くしないと、あんたの愉快で頼もしい女官が戻ってくるぞ」
「……」
「それから、おれのことは、スラウって呼んでもいい。おれを呼びたくなったらこの笛を吹け」
机に張りついて手紙をしたためているエリーに、彼はそう言って小さな陶器の笛を投げ渡した。
スラウ。
東方風の素敵な名前だ。エリーは頷いた。
「スラウ」
「何だ」
「スラウ、というのは東方人の名前でしょう。大陸共通語ではどんな文字で綴るの? ここに書いてみて」
エリーはスラウに白紙を渡す。
スラウは彼女が何を考えているのか瞬時に把握し、苦く笑った。
「文字は苦手だ」
そう囁くとエリーからペンを借り、すらすらと文字を綴った。