2-3 もう逃げられない
女官リラは、リトワース公爵の配下ダリウス家の娘でありながらその血を裏切り、恋人であったアルディン近衛隊長の意志を継ぐという。
その意志とは国王に見捨てられた王妃エリーの守護と、リトワース公爵への復讐。
(信じるわけがない)
エリーは寝台に横たわり、リラににされるがまま足を揉ませていた。
(わたくしを試している、義父上の罠だ)
「王妃様は私を信じていないのでしょう?」
「もちろんよ。おまえの言葉には証拠も誠意も感じられないもの」
「そうですね。では、手荒な真似はしたくなかったのですが――……」
急に強い眠気に襲われた。
リラが運んできた薬茶とオイルに睡眠薬が仕込まれていたのだ。
エリーは瞼をこじ開けようとするが力が入らない。まるで体が溶けていくかのようだ、五感が鈍くなっていく。リラの声が遠い。
深い眠りに落ちる直前にリラの優しい声を聴いた。
「亡きアルディン近衛隊長が用意した隠れ家にお連れいたします。『清き世を迎える会』の仲間があなた様を待っていますから」
(清き世――なんですって?)
それきり視界は暗転した。
麻袋に詰め込まれて城から誘拐されたらしい。
意識を取り戻したエリーはまず咳き込んだ。ずいぶんと埃を吸い込んだらしく、咳が止まらず肺が苦しい。苦痛で涙が溢れた。
「しっかりなさってください王妃様。お水を飲んで」
体を支えて肩を抱き、杯の水を飲ませてくれた者がいる。
リラだ。
女官姿の衣装を脱いで髪を解き、灰色の質素な上着をまとっていた。
「ここは何処」
「リトワース公爵の監視が届かない安全な場所です、どうかご安心ください」
「無礼者。なぜわたくしをさらったの」
「乱暴な手段をとってしまったことはお詫びいたします。私はこの国の現状を憂う若者たちで結成された『清き世を迎える会』の一員、そしてアルディン近衛隊長も仲間でした。我々の悲願は国王陛下の東方からのご帰還、そして王都を我が物としているリトワース公爵の抹殺」
静かな口調に闘志が漲っている。
「王妃様、どうかお力をお貸しください。悪しきリトワースを討てと、我々にただ一言命じていただきたいのです」
「できないわ。王都の民に剣をとれと命じる権利を有するのは、わたくしではなく国王陛下ただおひとりだけ」
「その国王陛下を王都にお迎えするために、王妃さまの号令が必要なのです!」
五感の霞みが薄れてきた。
エリーはようやくこの部屋を見渡す。気づけば窓のない小部屋いっぱいにリラと同じ灰装束の者たちが詰めかけていた。
かなりの数だ。
エリーは思わず唾を飲む。
彼女の感嘆に気づいたのかリラは大きく頷いた。
「そうです王妃さま。我らの仲間は数多い」
「けれど」
「国王はこの組織の存在をご存知です。我々は何度もアルディン近衛隊長を通してリトワース公爵の悪行を報告してまいりましたから。ですから陛下はアルディンに王妃様の身の安全を任せたのです。どうか、私たちを信じていただけませんか。私たちと一緒にリトワース公爵と戦い、正義の力で玉座を護り、国王陛下の帰還をお待ちいただけませんか」
リラの言葉は聡明で、しかも、甘く、光に満ちていた。
アルディン近衛隊長なき今、彼女がこの集団をまとめている。それだけの人望がある。そして未来を信じている。
けれど。
……けれど、けれど。
――姫様、剣をとるのです。
エリーの耳の奥で懐かしい声が響いた。
懐かしい慈母神教会、尼僧たちの声だった。
――エリー、剣をとりなさい。
それは、王族の血を引く孤児の小娘を育てるために尼僧たちが不殺の掟を破った声だ。エリー、あなたは教会の女ではなく玉座の女になるのです。ですから、いざとなったら神様ではなく剣を信じなさい。
あなたの宿命を救うのはきっと、祈祷ではなく剣の一振り。……
「そうね」
エリーは立ち上がった。
「わかりました。わたくしは剣をとって立ちあがり、あなたがた『清き世を迎える会』とともに我が義父リトワース公爵と闘います。国王陛下の帰還を待つため――皆さん、わたくしに従ってくれますね?」
凜とした声が響く。
その声はたしかに16歳の少女のものだった。だが同時にこの国の王妃のものでもあった。今や王都でたったひとりきりの王族のものだった。
遠征先の風土病で父親を亡くした国王ダランは、それより先に兄弟姉妹と母親を亡くしている。それだけでなく、すでに伯父ふたりに叔母三人も亡くしている。王の一族はその代々が短命といわれていた。
国王ダランが行方をくらませた今、王都はエリーのものなのだ。
「わたくしが王都を、城を、玉座を護ります。義父リトワースには渡しません」
決意を込めたエリーの声に、室内の何処からか嘲笑が上がった。
「ずいぶんとご立派な宣言だが、王妃様、あんた震えてるよ」
幼い少年の声だった。
突然、水を打ったように静かになる。リラが「誰!」と声を殺して誰何した。
「名乗るほどのもんじゃねえよ。見ての通り、おれはただのガキだ」
灰装束の者たちが一斉に声の主を見る。
ぴょん、と悪戯っぽく飛び跳ねているのは、まだ10歳にも満たぬほど幼い少年だった。
夏の夜明けのような見事な濃紺の髪、そして同じ色の眸。大人たちのような灰装束ではなく、粗末な布で織られた窮屈な服を着ていた。
なんて強い目。
うんと年下の少年だというのに、なぜかエリーは頬を赤らめた。体の芯が熱くなった。この幼い子を知っているような気がする、と思った。
「坊や、いったい何処から入ってきたの。ここはおまえが来て良い場所ではない」
「おれはただの子ネズミだ、壁に穴が開いていれば何処からでも入り込むよ。そしてついでに耳もいい。お姉さんもお兄さんもおっさんもおばさんも、そして王妃様も、早くここから逃げたほうがいいよ。もうすぐここに公爵さまの兵が来る――あんたたちは畏れ多くも王妃様を誘拐したんだからな、公爵さまの怒りは炎の塊となってこの界隈を焼き尽くすよ」
その声に騒然となる。
「おまえはいったい……」
「とにかく今は逃げたほうがいいよ、ダリウス家のリラおねえさん。生きていれば死んだ恋人の復讐も出来るだろう」
「!」
リラは大きく目を見開く。
少年は片手を振った。
「あんたたちはリトワース公の恐ろしさを知らないんだ。あいつは王都地下の黒き魔術者たちと通じている。王室に連なる方々を病死に見せかけてひとりずつ片付けて、その仕上げが今回の国王襲撃だ。あんたらド素人が戦える相手じゃねえんだよ」
ふた呼吸後には見張りの者が「リトワースの兵だ!」と叫びながら転がり込んできた。もうすぐここに地獄がやってくる。灰装束の団体は一斉にフードを被り逃げ出した。地下に潜る秘密の出口に消えていく。
「いったん散会いたします。王妃様、どうぞこちらへ!」
リラがエリーの手を取って地下道への抜け穴に導く。
躊躇する時間はなかった。エリーは頷いてリラに従う。
「だめだ! 王妃はこっち!」
ところが反対側の腕をぐいと掴まれ引き戻された。振り返るとあの紺色の少年がいる。
「あんたはおれと一緒に行くんだ」
「王妃さま!」
リラが悲鳴を上げた。だが大挙して逃げ出す灰装束の者たちに押され、地下道に流されていく。
「おまえは誰……」
「後で話す。とりあえずこの場から逃げよう」
少年はエリーの両手を握った。
彼女よりも背が低い。ちょうど自分の胸の位置にある少年の頭をエリーは見下ろした。なぜか、大丈夫、と思えた。
「無茶なことを言ってる自覚はある。でも言う。王妃、おれを信じてくれる?」
「そんなのわからない」
「あんたがおれを信じてくれなきゃ逃げられない。信じると言って欲しい、嘘でもいいから」
「――信じる」
「よかった。行くぞ!」
強い風に吹かれたことまでは覚えている。
少年が唱えた異国の言葉が、魔術者の用いる詠唱なのではないかと思ったことも覚えている。
気がつくとエリーは空中にいた。
正確には、王都の上空を飛ぶ巨大な鳥の背に乗っていた。
見たこともない巨大な猛禽だ。目の前には少年の背中がある。
「空を……飛んでる!」
眼下には王都の町があった。
目を凝らすと、甲冑の兵たちが細い裏道に駆け込んでいくのが見える。彼らが向かっている場所は、さっきまでエリーがいた『清き世を迎える会』の隠れ家だろう。
一網打尽だ。
きっと逃げ遅れた者は惨殺されている。リラは無事だろうか。エリーは奥歯を噛みしめた。
「しっかり捕まってろ、城の上空まで姿をくらまして飛ぶから」
少年が叫んだ。
風に煽られる。
「ひっ!」
エリーは目の前の小さな背にしがみついた。
「これは魔術? おまえは魔術遣いなの?」
「そう見えるならそうなんだろうな」
「ありえない」
エリーは頭を振った。リマーディル国は魔術を禁止している。この国に存在する魔術遣いは、国家の掟に背き邪悪に染まった漆黒の魔術遣い集団だ。
(そういえばさっき、王都地下の黒魔術遣いたちと義父上が繋がっているとこの子は言った)
「幼い魔術遣いさん。おまえは我が国の民ではないでしょう。いったいどこから来たの」
「はるか東の地だ」
少年はあっさりとそう答えた。
東の地。
「東の地……国王陛下が行方知れずになった場所……おまえはは陛下を知っているの?」
少年は短く頷いた。
「もっと早く到着したかった。瞬間移動魔術を繰り返してきたが間に合わなかったんだ。すまない」
魔術によって姿をくらませている猛禽が城の奥にたどり着く。
エリーを降ろしたのは、彼女が秘密にしているあの花壇だった。なぜこの場所をおまえが知っているの、とエリーは尋ねたかったが、それは今すべき会話ではない。
「ここなら誰の目にもとまらず部屋に戻れるだろう」
「ありがとう。助けてくれて、それからここまで送ってくれて。礼を言うわ」
「礼なんて言わないでくれ。おれはあんたを絶望の檻に返しただけだ」
昨日踏み荒らされた花壇がそのままだ。
アルディン近衛隊長とアナの遺体は片付けられていたが、血痕がまだ残っている。そして枯れてしまった大輪のウィン花も。
「王妃の花……」
少年がそっと呟いた。
「そうよ。おまえは幼いのに異国の文化にあかるいのね」
エリーが褒めると、少年は複雑に笑む。
「ひとつ伝えておく。――あんたの夫は死んだ。この国の王はもういない、あんたが玉座を護るしかない」
そう告げると、少年は再び猛禽の背に乗り姿を消した。
残されたエリーは呆然と立ちすくむばかりだった。
*
翌日、またしてもエリーに仕える女官が替わった。
今度はでっぷりと太った中年女、センナ女官だ。どこぞの男爵家の行かず後家だと自己紹介した彼女に、エリーはリラの消息を尋ねなかった。
それなのに女官は肩をすくめて彼女に囁いた。
「リトワース公爵からのご伝言です。王妃様の誘拐を企んだ『清き世を迎える会』は壊滅したのでどうぞご安心くださいとのこと。何はともあれよかったですわねえ!」
エリーは顔色を変えないように拳を握りしめた。
同じ日の昼、国家転覆を謀った罪で『清き世を迎える会』の首謀者以下の男女がとらえられた。
処刑広場の中心に引き出されたリラは大声でリトワース公爵を糾弾したが、その声は民草の歓声にかき消え、やがて物言わぬ生首ひとつとなった。彼女は恋人であったアルディン近衛隊長のもとに逝ったのだ。
エリーは彼女の処刑から目を逸らさなかった。
国王は死んだ、とあの魔術遣いの少年は言った。
(わたしが玉座を護るしかない)
もう逃げられない。