2-1 エリディア
エリディア。
それがリマーディル国王妃エリーの名だ。
彼女にその名を授けたのは実の父親であったという。
だがエリーには、彼女の血の源である両親の記憶がない。
エリーが生まれたのは王都から離れた南の農村だった。父の名も母の名もエリーは知らない。彼女に父と母が生きていた証を伝える遺品さえもない。
彼らは〝流浪者〟であったという。
〝流浪者〟とは定住地をもたぬ最下層の民をいう。各地を転々としながら一生を終える彼らに救いはなく神の祝福もない。
何処からともなくあらわれて村の隅に居着いた〝流浪者〟の若い男女が、子を生んで、赤ん坊にエリディアと名付けて去り、その後は森の奥で獣に喰われ死んでいたという。棲み家を持たぬ〝流浪者〟にとっては避けられない最期だった。
エリーの人生最初の記憶は、村はずれの慈母神教会で尼僧たちに抱かれながら嗅いだミルクの匂いだった。
両親のないエリーは教会で育てられたのだ。
「あわれな姫君、あなたの父と母は大地に下った」
「母を喪った姫君には慈母の乳を」
薄布で顔を隠した尼僧たちは、なぜかエリーを姫君と呼んだ。
彼女たちの世話をうけてエリーは育った。彼女たちが慈母の乳と呼んでいたのは山羊の乳だ。エリーはそれをよく飲んですくすくと育った。そうして乳離れした後は、教会の裏庭で育てている野菜を煮炊きした粗末なスープを与えられた。幼いエリーにはちょうどよい離乳食だった。
貧しくも豊かな日々だった。
エリーは教会で言葉を覚え、教会で世界を知った。
そして尼僧たちはエリーに両親について話した。村の片隅に住み着いた〝流浪者〟の美しい男女のことを。村人たちに虐げられ森の中で暮らしていた彼らが、ある日、教会の尼僧たちを頼って駆け込んできたことを。
エリーがこの世に転がり落ちたのは、春の嵐の夜だった。
――慈母神教会の尼僧たちよ、我らに加護を!
〝流浪者〟の男が抱き運んできた女はすでに産気づいており、尼僧たちの介助で出産した。
生まれたのは可愛らしい女の子だった。
男は我が子を抱き上げ「エリディア」と呼んだ。そして尼僧たちにそっと娘を抱き渡した。
――我らは王族の血を引く者。この赤子はその末裔である。
――エリディアとは始祖の女神の名、この娘は王族純血の末裔である。
――祖先の霊はこの娘に祝福を与えた。
――いつの日か偉大なる王がこの娘を得るだろう。
人の声とも思えぬ口調で告げたのはエリディアを生んだ母だった。彼女を庇うように、男は言葉を足した。
――私と妻はこの赤子を流浪の旅に連れてはいけない。どうかあなたがたがこの子を育て、いつか本来の居場所に返してやってほしい。
尼僧たちはその言葉を信じ、エリーを姫君と呼んで敬い育てた。そして幼いエリーもまた尼僧たちの言葉を信じ、いつか王都のディスト城に帰還する日を夢に見た。
だからあの日、ついに運命が訪れたと喜んでしまった。
それはちょうどエリーが8歳、その春のこと。
あの日もやはり、彼女が生まれた夜と同じ春の嵐が吹き荒れていた。
「エリディアさま、お迎えに上がりました。私は王都のリトワースと申します。あなたは三代前の国王に連なる高貴な血の姫君。私はあなたを養女に迎える準備を整えております」
灰色の髪に琥珀の眸。
リトワースと名乗ってエリーに挨拶した美しい貴族の男はまるでお伽噺の住人だった。彼は王都の洗練そのものであり、宮廷の権力そのものだ。
「姫君におかれましては、これから私のもとでしかるべき教育を受け、そして本来の場所にお戻りいただきます」
「本来の場所?」
「そう。王族の血のあるべき場所。すなわち、王妃の座に」
あなたを探すのにどれだけ苦労したか、と、彼はわざとらしいほど明るく嘆いて見せた。そして美しい表情で溌剌と言った。
もう二度と、あなたを離さない、と。
その言葉に幼いエリーの胸は激しく高鳴った。
だから彼女もまた自身の胸に誓ってしまったのだ。どんなことがあっても自分はリトワース公爵を信じよう、ここまで誠意を尽くしてくれたひとだもの、わたくしをこの国の王妃にすると誓ってくれたひとだもの、と。
あのとき、リトワースの手を取るべきではなかった。
欲に目が眩んでいたのだ。王族の血という響きに、この国の王妃になるという甘い妄想に、自分の中のもっとも大切な部分を燃やされてしまったのだ。
だからきっと、どうかしていた。
エリーはリトワース公爵の養女となって贅沢を覚えた。
貧しい教会で育てられていた過去をすべて捨てた。
山羊のミルクも野菜くずのスープの味もあっという間に忘れてしまった。
姫君のしぐさを覚えるごとに、高慢になるごとに、自尊心が膨張するごとに、リトワースはエリーの成長を褒め称えた。
いつの間にかエリーは、わたくしこそが王妃、わたくしこそが王族の純血者、わたくしこそが女神の転生者だと思い上がるようになっていた。
だから、会ったこともない国王の妃になるのも平気だった。
エリーが11歳で王妃になったとき、国王ダランは15歳だった。
ダランはその前年から王子として父王とともに大陸東方遠征に出ていた。国王の長年の野望である東方部族の武力制圧がその目的だった。
ところが国王は遠征の途で風土病で倒れ、そして死んだ。突然の崩御だった。
だが、その場に王位継承者のダラン王子がいたのは不幸中の幸いだった。父親をなくしたダラン王子はその涙も乾かぬうちに旅先で王位を継いだ。さらにリマーディル国の習わしとして王位に就いたと同時に正妃を迎えなければならなかった。
そして、王都の留守を預かるリトワース公爵のもとにはダランの妃になるために教育を受けているエリーがいた。
「さあ王妃、おまえの出番だ」
義父上さまがいるのだから何も怖くありません、と、エリーは笑って宿命を受け入れた。
新郎の代理を務める義父リトワースと腕を組んで入城した。
そして王都神殿では、夫ではなくリトワースの手から妃の冠を受け、ひとりで結婚の宣誓をした。
エリーは王家の血族であり、王妃であり、リトワース公爵の娘。
彼女の立場は盤石だった。その権力に王都がひれ伏した。
そうして国王不在のまま五年以上が過ぎたのだ。
――その間、リトワースが着々と王位簒奪を画策していたことにも気づかずに。
*
鼻孔から血と炎の臭いが抜けない。
エリーは手の甲で顔を拭った。
窓辺に視線を向ければ、いつもと変わらぬ王都の町並みが見える。城内の戦闘騒ぎはすでに収まっているようだ。
小さく呻いて唇を噛んだ。
リトワースの命令で運び込まれたのは、監禁用の牢獄でも地下室でもなかった。
(どうやら、まだ大切に取り扱ってもらえているらしいわね)
(それもそのはず。だって王家の血をひくわたくしは、これから義父上の子を産まされるのだから)
ここはエリーが暮らしている王妃の間だ。昨日と何ら変わらぬ日常の空間だった。
だが、目に映る光景は色を変えてしまった。
エリーは小さく絶望の息を吐く。
あれからリトワースの命令に従って全身を湯で清め、返り血と土埃を洗い流した。それでも近衛隊長アルディンの血が両手から抜けない。あの死に顔が瞼に焼き付いて離れない。
国王陛下の腹心の部下だったアルディン。
彼はいったいどんな思いで、王妃を救出し護ってくれという王の命令を受けたのだろう。
『余は君の義父リトワース公に裏切られた』
その一文がエリーには重く響いている。
どんなに堪えても涙が溢れて止まらない。エリーが愚かでした。義父を信じていたエリーがばかでした。いったい誰にどれだけ謝れば許して貰えるだろう。
国王陛下は、今、何処にいるのだろうか。
はるか東方の地でリトワース公爵の息のかかった逆賊に襲われ、現在は消息不明だ。彼がアルディンに託した手紙では、いったん国を捨て東方のどこかに潜むと告げていた。
そしてエリーに、王妃を見捨てた不誠実を許してほしい、と詫びていた。
(お互い様だわ)
(謝るなんておっしゃらないで。見知らぬわが君)
(愚かなのはあなたの妻です)
(どうかご無事でいてください)
(わたくしも生き抜いてみせますから)
エリーは嗚咽を噛み殺しながら床にくずおれ、うずくまった。
ならばこれからどうするか。どうすればいいのか。
エリーはそれを考えた。ひたすらに考えていた。
『どうか生き延びてくれ
そしてこの国を頼む』
そうだ。しっかりしなくては。
今やこのわたくしただひとりがこの国の王位継承者なのだ。
エリーは涙に濡れた顔を上げた。






