ルール2《キャントビート・ブギーマン》
(何倒れた敵の前で喜んでんだ馬鹿、あんなタイミング逃げ一択だろ!)
上下逆転した視点のままアユムは自分に悪態をつく、先程からそうだ、後から考え直せば冷静な判断が追いついてくる。肉体の動きと思考は問題無い、だが一手先の想像力が足りないもどかしさ――いやこの場合。
(記憶だ、何を忘れているのかはさっぱりわからないが、経験が奪われている)
度重なる違和感、そして、思い出せない物事の数々。
どうしてこの怪物に襲われるのか。
ここに来る直前何をしていたか。
この夏、何故この病院に入院したか。
何故、自分は戦えるのか。
ミツキは、一体何の相棒だったのか。
肉体と知性そのものに刻まれた反射的な習慣と、意識的な経験知の不均衡。
アユムは何かと戦う事に慣れている、が、それが記憶にない。
そう、判断した。
(状況は理解した、したけどよ、どうすっかなこれ)
冷静になった頭で天井を見下ろす。
ブギーマンはアユムをの左足を右腕一本で吊り下げて、停止している。
アユムもまた吊り下げられた状態でじっと出方を伺っている。
両者の間に奇妙な膠着状態が産まれていた。
アユムはこの状況で諦めたわけではない、思考を巡らせ解決策を練っている。
ブギーマンもまたアユムを捕まえ続けている事から見逃す気は無いだろう。
攫うのであれば捕まえれば引きずってでも目的地へ向かう筈だ、そうでなければアユムに対して空いた左手で攻撃を加える。
二択へのリアクションで脱出を図る。
そう考えていたが故に、アユムは視点の置所を間違えていた事に気づけなかった。
天井を見下ろすアユムの頭上からバリバリと何かが裂ける音がした。
アユムは即座に音の鳴る方を向き、絶句した。
ブギーマンの腹部が服ごと縦に裂け、まるで杭のような歯が並ぶ巨大な口が今まさに生まれようとしていたのだ。
―――ブギーマンは夜ふかしをする子供を食べる。
誰かに聞いた言葉が、脳裏に過る。
ブギーマンがまるでタオルでも扱うかのようにアユムを振り上げた。振り下ろす先は当然。
「うおああああああああああああ!!!!!!」
アユムは絶叫と共に、迫りくる巨大な口腔に対し両腕と残った右足でギリギリ突っ張った。
衝撃は絶大、口の縁から引き剥がされそうになるのを懸命押さえる。
眼前の肉の器は底抜けに深く、明らかにブギーマンの肉体の先に繋がっている。
(ヤベエ、どう考えてもこの先は行ったら終わりだ!)
なんとか衝撃を受けきったものの、両腕と右足に強烈な痺れ、あとはできてギリギリワンアクション。
このアクションへの対処のビジョンは無かったが故のダメージ、リカバリー策を即座に考える。
だが、直感的に想定していた最悪の展開はすぐに実現された。
アユムの視点が再び急速に背後に飛んでゆく、そう、二度目の振り上げ。
左腕での押し込みを選ぶならば一回限りに避けるでもなんでも選択肢はあった。
だがこの繰り返しでの消耗は対応のしようがない。
再び口腔が眼前に迫る。
アユムもまた両腕と右足を突き出すが、先程の痺れが右足を縺れさせる。
両腕のみが縁に取り付き、押し切られ、指が滑り始める。
「クソッタレえええええええ!!!!」
アユムは悪態をつきながら、せめて最期まで抗ってやると自分が堕とされようとしている暗闇を睨みつけ―――
「大丈夫か!」
強い頭部への衝撃と共にアユムは仰向けに倒れ、よく通るその声を聞いていた。
場所は変わらず病院の廊下、見上げた先に居たのは右腕の無いブギーマンと一人の青年。
歳はアユムよりも2つほど上だろうか
少し長めの黒髪を後ろでゴムで纏めている
服装はどこかのバンドのパーカーにジーンズ
顔つきはスマートでアイドル系のイケメンといった風体だ
そして何よりも目立つのはその両手で握りしめられ振り下ろされている刀
―――それでブギーマンの腕を両断して今まさに飲まれようとしていたアユムを救いだしたのだろう。
(なんか主人公みたいなヤツが来たな)
アユムは返事もせずにまだ痛む頭でぼんやりとそう考えていた。
そんなアユムの反応を見て、青年は何を思ったのか倒れていたアユムの手を掴み起き上がらせ、そのまま走り出した。
「ごめん!あいつは倒せないんだ!だから急いで逃げなきゃいけない!辛いかもしれないけど走って!」
(知ってるよ)
アユムは手を引かれながら、チラリと後ろを見ると右腕の断面からウネウネと肉のこびり着いた神経のようなものが伸び今まさに繋がろうとしている所だった。意識はしていなかったが、奇妙な形に変形していた筈の首も今はキチンと座っている。
いつまでも返事の無いアユムに対し、青年は気遣うような声色でこう言った。
「ごめん名乗ってなかった、僕の名前はケイ、細かい事は落ち着いてからゆっくり話そう」
青年はアユムの手を引きながらそう名乗り、爽やかに笑った。