ルール1《ザットネームイズ》
暗がりで意識を取り戻したアユムは素早く立ち上がった。
まず自分の状態を確認する、拘束無し、武器無し、五体満足、問題なし。
「問題無い、よな?」
アユムは右左と足を踏み込み、生身の足に感じる反動を確かめる。改めて問題なし。
「ミツキとははぐれちまったか、いや、そもそも何をしてたんだっけか?」
ミツキ、大切な自分の相棒、思い出せる、問題なし。
アユムはルーチン的に自己分析をしながら、周囲を見渡す。
明かりはないが、背後の窓から差し込む月明かりでその場所を認識した。
自分が立っている場所はベッドの上だ、同じ部屋にもカーテンで仕切られながら同様のベッドがある、奥にはスライドドアがあり、おそらく廊下に繋がっている。
見覚えのある場所、病院の4人部屋、夏にアユムが入院していたその場所だ。
「流石に退院した事は覚えてんだよな、こりゃ何だ?いやなんで入院した……ッ!」
ベッドの下から伸ばされた手を全力でアユムは踏みつけ、その勢いのまま前宙し即座に振り返った。
考え込んでいる中、それに気づき反応できたのはアユムの精神に刻まれた習慣と反射神経故だった。
「なんだてめェ!」
踏みつけた手、そこから伸びる長い腕、そしてベッドの下に潜む、何者か。
それはアユムを捉えそびれたことに気づくと、緩慢とすら思える動きでそこから這い出し立ち上がった。
身の丈は2m以上、全身は肉厚な筋肉につつまれている。
おそらくあの手に捕まっていれば一巻の終わりだっただろう。
服装はボロ布を纏っているかのようだが、アユムには何か思い出せない別のものに見えた。
そしてその、木の洞のような捉え所の無い顔。
こいつがブギーマン
倒すことは出来ない
こいつに捕まったら最後、攫われ帰る事はできない
なんとか夜明けまで逃げ切らなければ
そうアユムには判った。
(で、俺は何ボーッと見てんだよ馬鹿!)
アユムはハッとして踵を返し、病室の出口から廊下へ駆け出した。
アユムは長い廊下を走りながらチラリと背後を見る、自分が今飛び出した扉が再度開く気配は無い。
だが、見られている、そう直感した。
(個室に隠れるのは駄目だ、外の広い場所に出る)
指針を決める、自分の入院していた部屋は二階の中程だったと記憶している。
アユムは階段へ直行、階段を視認し次第、一気に踊り場へ向け階段を飛び降りていく。
ランディングという四点着地の技術で衝撃を殺し、素早く振り返った瞬間。
下へ繋がる階段の暗がりから伸びてきた右腕を転がるようにアユムは回避し、目を見張った。
「んで、ここに居るんだよ!」
目に映るはこちらを見上げる木の洞の如き顔面、空を切り踊るかのように奇怪に指が暴れる右腕。
今まさに逃走経路に思考していた下り階段、置き去りにした筈のブギーマンがそこに居た。
アユムはわずかに後ずさり、ブギーマンから目を離さず現在の地形を想起する。
左回りの階段の踊り場、幅は3m程度、奥行きは2m程度、下がりすぎれば壁。
階段の幅は2m無いだろう、ブギーマンの位置は階段の内側寄りだが、あの腕の長さが相手では開けた道をすり抜けようとすればまず捕まる。
上り階段を選べばふりだしに戻る、そもそも今度は逃げる背を見逃すか否か、不確定。
自分は何かこの状況を確実に打破できる何かを持っていないか、無い、と思う。
有効な選択肢が無い。
(ざけんな、こんな理不尽な相手に朝まで?逃げ切れる訳ねえだろ)
状況を冷静に整理する度に自分の判断の遅さに苛つき、アユムの心に沸々と怒りが湧いてきていた。
ブギーマンが一歩踊り場へ踏み出した、その瞬間、アユムも同時に動いた。
右前方へのステップ、言わばブギーマンの居ない側の階段への踏み出し、それに反射するように長い左腕が伸びる。
アユムはそれを見越したように着地した右足を軸にバネのように素早く真左に跳躍した。ブギーマンと階段の内側を挟む狭い空間、その壁面へ。
ブギーマンは崩れた体制のまま右腕を振り上げるが、既にアユムの攻撃準備は完了していた。
壁面に足の裏で吸い付くように着地した左足を折り曲げ、今まさに力を開放した右足をブギーマンの首に押し当てた状態。
「トロいんだよ!死ね!」
アユムの壁面に溜めていた左足が跳ね、右足が重力という後押しと共に杭の如く階段の下方へと向けて解き放たれた。
結果は劇的だった。
ブギーマンが後方にバランスを崩し、階段の存在を忘れたかのようにアユムと共に放物線を描き落下する。
そしてアユムは、落下の衝撃と全体重をかけその頸骨を完全に破壊した感触を確認すると同時に前転で自らは衝撃を逃した。
完璧な手応えを感じながら、アユムは振り返る。
現在地は一階、出口はもう目の前だ。
そして今まさに会心の一撃を食らわせたブギーマンは、明らかに首が伸び人体ではありえない方向へ頭部を捻じ曲げながら廊下にピクリともせず横たわっている。
「死んだ、か…?へ、へへ」
一瞬の罪悪感を感じながらも、相手は人間じゃない、怪物だと、気を取り直しす。
そして、地面に横たわるブギーマンを見て様々な悪態のポーズを取りながら勝鬨を上げた。
「おっしゃあ!突破してやったぜ!ざまあみろ!」
ストレスからの開放、歓喜の咆哮、しかし、次の瞬間アユムの勝鬨は中断せざる得なくなった。
倒れ伏した筈のブギーマンの体が、ビクンと跳ねた。
まるで陸にあげられた魚のような奇態でありながら、非常に効率的にアユムに飛びかかってきたのだ。
「う"え"っ!!」
アユムは後ずさるが、今度は一手遅かった。
距離が足りず、地面に這いずるように落下したブギーマンだったがその右腕は確かにアユムに左足首を掴んでいた。
「クソが!離せやボケ!」
慌てて右足で掴んだ腕を踏みつけ続けるが、ブギーマンは万力のような力で決して離す事はない。
そしてあろうことか掴んだままの姿勢で、ゆっくりと立ち上がり始める。
(嘘だろ、これじゃ)
気づいた時にはアユムの体は地面から離れ、左足から逆さ吊りにされていた。
ブギーマンは、倒すことは出来ない。
ルールは最初に説明されていた。