彼の名は《ブギーマン》
事件から数週間が過ぎた。
【悪夢】による昏睡者はあの晩に全て目覚め、長期の昏睡者は兎も角、数日程度の人達であれば問題なく社会復帰が可能な程度だった。
同時にブギーマンの噂も風化しつつある、多少の脚色といろいろなアレンジが加えられ、たまに語られはするが、そこに実害があったという噂は含まれていない。
アユムとしては死ぬような思いをした甲斐があったというものだが。
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秋晴れの空、昼休みの学校の中庭
「また新しいブギーマンの噂が出たァ?」
アユムはミナに告げられた新情報に叫び声を上げた。
事件も終わったはずだが、この情報交換のようなものは不定期ながらミナの呼びかけで開催されている。
大抵は、他愛もない噂話や、真偽不明の事件の裏側、陰謀論、アユムはそんな些細なこと伝えなくても手間になるし、この前みたいに巻き込まれる可能性もあるなら辞めたほうが良いと思い――実際口にしたが、ミナが続ける事の大切さを語り始めたので――つつ、続けていたのだが今日のそれは珍しく爆弾級の代物だった。
ミナは慌てて、その発言を訂正する。
「いや、前のブギーマンとは違っててなんというか、その、アユム君達みたいな?」
「俺達みたいなァ?」
アユムは再び眉を顰める、それこそよくわからない。
「いや、その~~」
ミナが目を逸らすと、その先にリーベと目が合った。
無表情のままクリクリした青い目でじっとミナを見つめて、こてんと首をかしげた。
(リーベちゃん、なんかこう、日に日にパワーアップしてる……ような気がする)
リーベは、無反応のようでいて、人の好意や悪意に異様に敏感な事にミナは気づいていた。
まるで妖精のように好き勝手動いているように見えて、その実、悪意が感じ取れる場所からは自然と離れ、人と人の好意の感情がある場所にいつの間にか居る。
それは、野生動物が安全な場所を嗅ぎ分ける嗅覚のようなものなのかもしれない。
そう、そしてその妖精に見つめられると、心の中の好意や下心が見透かされ――――
「そ、そう、じゃあ最初からせつめいするから良く聞いてね!」
思考がまずい方向に向い始めたと、ミナは早口で説明を始めた。
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「ハァハァハァ!」
男は夜の街を走る、煙草と酒とドラッグでボロボロの体には酷な運動ではあったが止まるわけには行かなかった。
その晩、男は行きつけのバーで一服するつもりだった。
繁華街の外れ、廃ビル群の近くに存在する所謂、ワルなら知る人ぞ知るバー。
男が、扉を開け、顔見知りを見つけようと片手を上げ笑みを浮かべた時、その光景に愕然とした。
バー中のテーブルがひっくり返り、床一面に常連客が転がっている。
そこに奇妙な男が佇んでいた。
黒スモークのフルフェイス、全身を黒の革ツナギで覆い、木刀を担いでいる。
その男はバーカウンターに誰かを押さえつけている。
「や、やめろ!なにすんだ手前ェ!殺すな!」
押さえつけられていた男はマスターだった。
フルフェイスの男は、予想外に爽やかな声を出した。
「殺しはしないよ、それに僕は何もしない」
そう言って右手を頭に押し付けた。
「君を裁くのは君自身だ」
そう言うと、マスターはうあ"とうめき声を上げ自らの頭を抱え始めた。
「ちが、違う俺は、あ、あああああああ!!」
マスターは叫び声を上げ床を転げ回る。
よく見ると周囲に倒れていた常連客も同様に、頭を抑え蹲っている。
フルフェイスの男は、ふうと息を吐くと、入り口で呆然としていた男を見た。
「まだ居たのか」
男は、その言葉に扉を放り投げるように踵を返した。
店を出て二分、この周囲の地理に詳しい男は細い道を繰り返し曲がり逃げ続ける。
(問題ねえ、店から出てすぐ姿を消したように見えた筈だ)
路地の出口の光が見える、そこからすぐに大通り、人混みに紛れれば――そう思っていた男の脚がなにかに引っかかりゴミの中に転倒する。
「痛そうだね、大丈夫」
男は目を剥いた。
フルフェイスの男が、いつの間にかそこに居て男の顔を見下ろしていたからだ。
「ど、どうやって……」
その問にフルフェイスの男は冷えた声で返答する。
「君が知った所でどうしようもない方法だよ」
そう言うと、フルフェイスの男は右手を男の額に向け、ん?と声を上げうつ伏せに倒れている男のネクタイに手を伸ばす。
「ああ、君はダイイチの」
その言葉に男は困惑する。
「お、俺を知ってるのか!?」
フルフェイスの男が首を振って、男の頭を鷲掴みにする。
「いや、忘れてくれ、僕は君なんて知らない」
次の瞬間、頭蓋の内部にピリッと静電気が走るかのような痛みが発し。
男にはそれが見えた。
それは女だった。
たしかいつかの夜に飲みに誘って、そこで一服盛って、滅茶苦茶に楽しくしてやった。
それは男だった。
気弱なやつだった、面白い遊びをよく試した。居なくなった時は残念だった。
それはセンコーだった。
ああ、珍しく意見するヤツだったから、けっこういい体してたってみんな笑ってた。
まだいた、まだまだ居た、ああ、際限がない、これは
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!」
男は目を閉じた、だが、彼等は消えない、幻覚は脳から引き摺り出されている。
ドラッグを決めた時の最悪のキマり方が100倍になって現れたかのように、男の脳内を駆け巡る。
爽やかとすら言える声の助言が闇夜の路地に響く。
「君が向き合えばそれは消える、向き合えればね」
男は何度も壁に頭を、打ち付ける、消えろ消えろ消えろと叫びながら。
フルフェイスの男は、既に背を向けていた。
「じゃあ良い悪夢を」