漆黒《ミラーマッチ》
それはブギーマンだった。
燦然と輝く月の下に、ただ黒一色の影がくしゃりと落ちると、よろよろよろめきながら立ち上がった。
人型、それもたった一人。
ただ、その姿が、今までのものとは明らかに違った。
それには、巨躯と呼べる程の体格はなかった。
それには、木の洞と形容できる顔すらない。
それには、服と呼べるものがない。
それには、人の形をしていながら生物的な要素が何一つなかった。
例えるならば、影で出来たマネキン人形、ホラー映画なら安上がりとも言えるデザイン。
だが、それを見てアユムは知らぬ間に一歩後ずさっていた。
「あれ、よくわかんねえが多分ヤベェぞ」
ケイも冷や汗を流しながら、頷く。
「うん、よくわからないけど、凄い、怖い」
二人はその影から目を離せず、直感的に悟っていた。
あれは全部だと。
ブギーマンは子供の恐怖が産み出した影に見る空想の怪物。
各々にブギーマンが居て、その想像力がこの悪夢に今まで居たブギーマンの一人一人だった。
だがあれはそうではない、直上の月、結束点、そこから産まれ出た、ブギーマンの完成形。
アユムは叫んだ。
「ケイ!跳べ!」
アユムは右に、ケイは左に、ブギーマンの足元から月光の影が伸び、二人の間を裂く。
ブギーマンは今アユム達が居たその場所にいつの間にか現れその両手を振り切っている。
耳に響く風を裂く音が、ただならぬ殺意をアユムに伝える。
「捕まえて喰うなんて、甘いもんじゃ無ェな……ッッ!」
一歩跳ね着地する間に、ブギーマンの足元の影がまるで時計の針のようにぐるりと回り、アユムの方を向いていた。
気づいたその時にはすでに腕は振り降ろされ、咄嗟に構えた鉄パイプに半ばまで右腕の爪が食い込んでいる。
ブギーマンの背後に、上段に刀を振り上げたケイが迫る。
が、アユムの目にはブギーマンの左腕が腹の前で横に薙ぐような――どこかで見覚えのある――溜めをしているのが見えていた。
アユムは、受けた右の爪を潜るように流し、トランシーバのダイヤルを全開にしながら叫んだ。
「ケイ、伏せろ!」
アユムの振り上げた左足がブギーマンの右爪と火花を散らしながら交差し、溜めに入っていた左腕に接触、紫電を撒き散らしながらその狙いをわずかに跳ね上げる事に成功していた。
ブギーマンの左腕が解き放たれる。
その力は、後ろに倒れるように下がったアユムの眼前を通過し、
アユムの言葉に咄嗟に伏せた、ケイの頭上をすれすれで奔り、
炸裂した。
落下防止柵が端から弾け飛んだ、
登ってきた屋上への塔屋が瓦礫と化した、
灯りの消えた航空障害灯がガラスを巻き散らかし砕け散った、
貯水槽が押しつぶされた水風船のように弾け飛んだ。
念力、【魔法使い】の基本であり、最も恐るべき汎用性と殺傷力を持つ【魔法】
アユムは跳躍を繰り返す。
同じ場所に一秒たりとも居てはならない。
ほぼ喰らえば一撃と思われる爪による攻撃。
自在に回るブギーマンの影による跳躍は、アユムの【魔法】を上回る速度での接近と攻撃を可能としている。
そして念力は、広範囲かつ高威力、溜めこそあれどそれはそう長くない。
なによりも背後に迫ったケイに対してまるで見えているかのような対応。
アユムは冷や汗をかく、現状で見えているブギーマンの行動の対処の難しさもあれど、想像通りならばアユムはブギーマンに勝つ事は厳しい、何故ならば。
(俺とミツキがやって欲しくねえ対応と攻撃ばっかして来やがる、つまりこれは、俺の恐怖だ)
全部入りなだけはある、ブギーマンはアユムの思考の鏡のように詰めてくる。
そう、まさに今、左足を向けた先に影の秒針が先回りするかのように止まったように。
(やっべッえ)
再び最初の状況の再現となる、ただしアユムに残された対処時間は遥かに短い、既に爪は振り下ろされている。
反射的にアユムは行動した。
首を反らす、腰を捻る、回避を諦め右の肩を晒す。
「い"ぎ……!」
爪が深く食い込み鮮血を散らし骨で止まった瞬間、準備していた右の回し蹴りをブギーマンの腰に叩き込む。
ブギーマンはたたらを踏み、アユムはその反動で後ろに下がる。
「アユム!」
凄まじい瞬発力で、ブギーマンとアユムの間にケイがカットに入る、覚醒とも言うべき【魔法】による肉体強化は既に常人の域を越えていた。
「悪いしくじった!」
アユムは再び影に捕まらぬよう、足を止めず自らの状況を冷静に検分する。
臓器への損傷は感じられない、だが、右腕は肩から先の感覚は完全に喪失している。
傷口から血は止めどなく流れ、かろうじて滑り落ちる鉄パイプを左に持ち替えたが、もう右腕は使い物にならないだろう。
(夢の中で失血死はあんのか…?というか夢の癖にクソ痛ェ、だけど、初めてじゃねえ)
かつて両腕の骨をへし折られた時、左足を失った時、それらの痛みに比べれば大した事はない。
ケイと向き合っていたブギーマンが左腕を大げさに振るうのに合わせ、ケイは刀で腕を跳ね上げ、アユムは素早く屈み込む、念力の破壊が屋上を更に荒廃させていく。
気付けばケイの動きが防御的、対処的に変わっている。
背後に居るであろうアユムを気にした動きだ。
(クソッたれ、足手まといかよ、それじゃあ……)
ケイの形相は必死そのものだ、だが、アユムは現状に疑念を抱いた。
ブギーマンの足元の影の針がアユムを指すと、それに合わせケイが肩から当たり体勢を崩す。
ブギーマンの左爪の振り上げをケイが刀の峰で斜めに受け流すと、右の爪が振り下ろされ今度は掻い潜るように懐に入り腹に肘を入れる。
(タイマンで、いけてねえか?)
開幕二対一で圧倒されていた筈のブギーマン相手に、ケイの動きが格段に良くなっている、それだけではない、一手ごとの対処が力強く、速くなっている。
アユムは肩の痛みも忘れ、至った結論にこみ上げそうになる笑いを必死に噛み殺した。
ケイはアユムの復帰を待っているだろうか、おそらくそうではない、今まで共に闘ってきた相棒が致命傷を負い動けなくなっていると考えている。
アユムは今この瞬間、守られる側の存在、だからこそ【ヒーロー】は奮い立っている。
(俺がそういう柄かよ、だが、そういう【魔法】なら仕方ねえ)
アユムはこの戦場の主役を認めた。
前に出ようとしていた足を止め、鉄パイプを取り落しトランシーバを手に持つ。
武器を取り落した音はケイに聞こえただろうか、より、深刻に状況を想像できただろうか、今はそう願う。
「レッドキャップからスプライトへ―――」
アユムは残された左腕に持つトランシーバへ小さく呟いた。
「作戦がある」
勝利条件とその道筋が決まった。